布教についてどうこう言う前に大切なのはコレなんです

こんにちは、ダメダメようぼくひさまつです。

色んな記事を書けば書くほど、特大ブーメランになって自分に突き刺さります。

4月から更新ペースを上げようと思っているので、この調子でいくと年末には突き刺さるところがなくなりそうです( `・ω・´)ノ

だれかぼくに「はがねのよろい」をください( `・ω・´)ノ

 

さて、先日友だちとこんなLINEをしました。

ともだち
偉人の方の本を読むと、にをいがけにフォーカスされてるよね。
ひさまつ
ふむふむ。
ともだち
そういうのを読むとすごいと思うんだけど、今の自分はどうなんだろ・・ってバリバリの布教師に対する劣等感を持ってしまうよね。
ひさまつ
うん、そうだね。

みたいな。

 

 

でも、彼は世界で二番目に危険な国の大使館でバリバリ仕事してるんですよね。

世界一安全な国で、仕事帰りにビールを飲んでるぼくからしたら、

もう十分あなたはすごい( `・ω・´)ノ

という感じなんですが、それでもバリバリの布教師に対して引け目を感じることがあるようです。

 

そんな彼のために、素敵なおさしづを見つけてきました。

いきましょう。

みんな布教師になることがゴールなのか

これはよく考えるんですが、みんながみんな布教師になる必要があるのか?というはなしです。

どうも入信したら別席運んで、「はい、あなたは晴れてようぼくになりました。ようぼくなんだから、しっかり布教活動をさせてもらいましょう。」的な雰囲気を感じませんか?

でも、これってなんか違う気がするんですよね。

入信したら布教活動をするのが当たり前、といった図式がどうもピンとこないんです。

 

極論ですが、世の中の人が全員ようぼくになったとしても、その人たちが全員バリバリの布教師になったら社会は成り立ちません。

お米や野菜を作る人がいて、料理を作る人がいて、子供たちを教育する人がいて、病気を治す人がいて、電車を動かす人がいて、、、例を挙げたらキリがないですが、いろんな人が支え合ってこの社会は成立しているわけです。

天理教が目指すゴールは、みんなが布教師になることではないんじゃないかと。

 

自分の得意なことや好きなことで人に喜んでもらう

なので、布教師ではないからって、本来引け目を感じることはないんです。

「おれ、それ不得意だわ」( `・ω・´)ノ

ぐらいに軽く思っておいたらいいんじゃないでしょうか。

 

そもそも、人には得意・不得意があるじゃないですか。

苦手なことができないなら、その代わりに、自分の得意なことや好きなことで人を喜ばせてあげたらいい。

例えば、ぼくはパソコンを使ってあれこれすることは得意ですが、嫁のようにおいしいビーフストロガノフをつくることはできません。反対に、嫁はパソコンを使うことは苦手だったりするわけです。

それなら、ぼくは料理をがんばるよりも、パソコンを使って嫁の用事をすませてあげる方がいい。その間に嫁にごはんを作ってもらう。

当然、できあがったものは、お互いに完成度が高くなります。自分の得意な作業をしたほうがよっぽど人を喜ばせるだけの価値が高くなります。

不得意なことを無理してがんばるぐらいなら、自分の得意なことを突きつめていって、価値を最大化してしまえばいい。

 

それに、得意なことってだいたい好きなことだったりします。

好きなことだからそれに没頭できるし、得意になれるんですよね。その積み重ねの先に、人を喜ばすことができる価値が大きくなっていく。

そうやって人にたくさん喜んでもらったらいいと思うわけです。

何事も人の心に満足をあたえるように

『信者の栞』の「誠真実」という項目の最後には、

何事も人の心に満足あたえるよう、日々に互い立て合い、扶け合いという心を働かしていくように、お願いします。(p31〜32)

と書かれています。

みんなそれぞれ持っている、人を喜ばすことができる価値を、お互いに交換し合いながら、扶け合って生きていく。

社会はこれまでも価値を交換し合いながら回ってきましたが、その価値がもっともっと高くなって、すべての人が高い価値を交換し合えるような社会になったら素晴らしいと思いませんか。

ぼくは、それが天理教の目指すゴールなんじゃないかと思うんです。

 

どこにいても誠の心ひとつ!!

で、この「おさしづ」を見てください。

これは、大阪の近藤さんが若狭へ布教へ行くことをうかがった「おさしづ」です。

明治20年7月
大阪近藤政慶若狭行きの伺

さあ/\尋ねる事情を、どうせともこうせとも、行けとも行くなとも、どうしてやろうこうしてやろうとも、この処、前から言うた事はないで。何事も皆銘々の心次第と言うてある事やで。何処に居ても月日の身の内や。何処に居るのも同じ事、誠の心一つや。誠が天の理や。天の理にさえ叶えば、何処に居ても道が付くで。実誠無けねば、何処い行たとて、何をしたとて道は狭ばむばかりやで。しいかり聞き分ねば分からん。しいかり聞き分けて諭すがよい。

 

シンプルに言えば、

「どこにいても、誠の心があれば道はつく。誠じゃなければ道は狭くなる。布教へ行くかどうかが重要なんじゃなくて、どこにいても誠であることが大切なんだよ。」

って諭されています。

布教についてどうこう言う前に、まずは誠の心が大切だと諭されているわけです。

結局のところ、布教の一番根っこの部分は誠なんですね。

 

まとめ

教内の雰囲気として、「入信したら最終的には布教師になるのが良いんだ」みたいな雰囲気があります。
そんな雰囲気だから、どうも布教師になっていないと居心地が悪いような気分になります。

でも、そんなことは一切気にしなくていい。

自分の好きなことや得意なことを突きつめていったらいいんです。それが社会に与える価値も一番高くなって、人に満足を与えることができて、誠として神様にお受け取りいただける。

で、それが結果的に布教につながっていくんですよね。

“どこにいても誠の心ひとつ”、ってなわけです( `・ω・´)ノ

その先に、いつかすべての人が高い価値を交換し合って、人を喜ばせ合っていけるような社会になったらいいなぁと思う。

布教についてあれこれ考える前に、まずは自分自身の心と向き合って誠の心になろうと努力したいものですね。

(ほら、今日も特大ブーメラン( `・ω・´)ノ)

今日も成人しましょう!

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