「あなた教」になりたくない「あなた」のための記事

こんにちは。ダメダメようぼくの久松です。

今、猛烈フライドポテトが食べたいです。あとコーラも飲みたいです。ピザも食べたいです。だれかクリスマスパーティー誘ってください( `・ω・´)ノ

 

この前こんな記事を書きました。

それは本当に天理教ですか?あなた教ではありませんか?

2017.11.22

結構色んなとこで反響いただいたんですが、「自分がまさにあなた教だった…」という反省の声が多かったように思います。笑

 

ちょっと補足なんですけど、個人の悟りを”個人の悟り”として話す分には問題ないと思うんですね。

あくまでも論点は、個人の悟りを”天理教の教え”として語ることはダメだよ、というところ。

で、今日は「あなた教」にならないための条件について考えてみたので、偉そうにしゃべります( `・ω・´)ノ

 

 

生きていたら判断の連続。でも一歩立ち止まってみると…

生きていたらいろんなことを判断する機会ばかりです。毎日その繰り返しですよね。

例えば、「今日はお昼に何を食べよう?」とか「仕事から帰ったら何しよっかなー?」とか、毎日生きていたら判断の連続だと思うんですよね。

 

でね、ぼくね、この判断の基準ってところが結構大事だと思うんですよ。

「自分が何を判断の基準にしているか」って考えたことありますか?

 

さらに、もうひとつ踏み込んでみます。

その判断の基準は「何から形作られたか?」って意識したことありますか?

 

正直、ほとんどないと思うんですよ。それが普通です。まじ普通です。

 

ただ、「自分の判断の基準は○○から形作られている」という”○○”の部分に自覚的だと、あなた教にならないと思うんですね。

 

外国の方が大阪へ旅行に来たら「日本語=関西弁」と思うのが自然だよね

例えば、外国人が大阪へ旅行に来たとします。で関西弁バリバリの現地ガイドさんにずーーっと案内してもらってたとします、例えばの話で。そうすると、その外国の方の日本語のイメージって、関西弁になると思うんですね。自然とそう判断しますよね。

でも実際、日本語には関西弁だけじゃなくて、名古屋弁もあれば、博多弁もあれば、もちろん標準語もある。

日本には○○弁と呼ばれる方言がいっぱいあります。これらすべてひっくるめて日本語じゃないですか。

いろんな角度から見て、初めて「日本語」の全体像がより正確に見えるようになってくると思うんですね。

 

 

教えを解釈するときも同じことが起こる

これと同じことが教えを解釈するときにも起こります。

 

自分が「それは天理教だ」と判断しているものは、他の角度から見た時にまた違って見えるのではないか?

そもそも、あなたが「それは天理教の教えだ」と判断した基準は、何によって形作られたものなのか?

・親から教えを学んだ
・教会の会長さんから教えを学んだ
・○○という本から教えを学んだ
・天理教校本科研究課程に行って教えを学んだ

親や会長さんやその本がいくら素晴らしかったとしても、いくら本科でがっつり教えを学んでも、それがすべてではない可能性もあるのです。

 

「あなた教」にならないためには?

僕が本科の研究課程に行った理由の一つに、「本当に天理教はこんなものなのか?この程度の教えなのか?」というモヤモヤがありました。

無意識に気付いてたのかもしれません。もっと別の側面があるんじゃないか、って。

希望にも似たような、僕が教会に生まれ小さい頃から慣れ親しんできた天理教の教えはこんなものじゃないと信じたかった、みたいな。

とにもかくにも、今見えている側面だけでなく、もっと色んな文献に触れて、きちんと自分の目で確かめたく本科に行ったんです。

その2年間で、それまで見聞きした100倍くらいの量の文献に触れることができました。

そうすると、当然、別の側面も見えてきます。イメージ的には、アタック25のパネルが剥がれていく感じ。笑

当然、ふつうの人よりはたくさんのパネルがオープンになってて、ぼくは教理について「よく知ってる」部類に入ると思います。

でも、それでも、ぼくの理解はあくまでも、ぼくがめくったパネルを通しての理解でしかない。

つまり、僕の「天理教とはこういうもんだ!」という理解は、ぼくが読んだ文献によって形作られている、と思うんですね。

まだ見えてないパネルも当然あります。しかもパネルが25枚だけじゃなくて、全部で何枚あるかも正直分からない。

そう、全然見えてないんです。

 

ぼくが「それが天理教の教えだ!」と判断する根拠は「ぼくがこれまでに読んだ文献」から形作られている。しかも、それは全体の何%が見えているのかさえ分からない。

手前味噌ですが、この辺りを自覚しとくことが、あなた教にならないために大切なんじゃないかと思います。

 

自分は何を見て、何を聞いて、「それが天理教の教えだと」判断したのか?

そう判断した根拠は何から形づくられたのか?

一度立ち止まって考えてみると、新たな側面から天理教を見つめられるかもしれませんね。

 

今日も偉そうに語ってしまいました、さーせん( `・ω・´)ノ

今日も成人しましょう!

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