「人を救ける心は真の誠」には、別の意味があるって知ってた?

こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。

嫁がコストコで買い物なうなので、その間ぼくはコメダでブログを書いてます。コストコとかIKEAは、ぼくにとってはホットドック屋でして、ホットドックを食べる前の運動として広い店内をウォーキングしている感じ。

先週もコストコに行ったところなので、さすがに今週は嫁だけに行ってもらいました。
テイクアウトのホットドックが楽しみです。

さて、余計な話をしている時間もないので本題へいきます。

 

「おかきさげ」には、

人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。

とあります。

この一文は「人を救ける心」=「真の誠」と理解されることが多いですよね。
でも実は、もうひとつ別の意味があるのです。

 

最初に断っておくと、今日の記事の元ネタは梅田正之先生の「誠について—とくに「おかきさげ」をめぐって—」(『天理教校論叢』第27号)です。

論文というものは基本的に難しいのですが、やっぱりすばらしい内容がたくさんあって勉強になります。それをかみ砕いていくのが今回の記事の主旨です。

さっそく見ていきましょう。

 

「人を救ける心」=「真の誠」以外の意味とは?

「おかきさげ」はもともと「おさづけさしづ」をまとめられてできあがったんだよと、以前の記事にも書きました。

だからこそ、「おさづけさしづ」を整理すると、「おかきさげ」に諭される神意を深く読みとることができるのです。

「人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。」という一文において、「おさづけさしづ」を整理すると、

「人を救ける心」=「真の誠」以外の意味が浮かび上がってきます。

 

とりあえず、この3つの「おさづけさしづ」を読んでください

読めばわかります、「人を救ける心は真の誠」に込められた別の意味が。

 

明治21年10月5日
辻本甚太郎三十四才

さあ/\席々だん/\の席尋ね出る席、一日の日いという席、難し事は言わん。心次第々々々、長らえて/\あちらの一つの理を眺め尚々の心の理を改め/\。これまで一つの事情の理という。これまでの理さあ/\長らえて/\の理いという。人を救けるというは、真の心の誠の理が救ける。常に誠の理をあれば自由自在。常に誠の理を聞き分けてこれより心入れ替えて、生涯一つの心と定め一つのこうのう渡そ。あしきはらいたすけたまへ天理王命、と、これ三遍唱え、又三遍々々々三々々の理を授けよ。しいかり受け取れ、さあ受け取れ。

人を救けるというは、真の心の誠の理が救ける。

はい、これ注目。

 

 

明治22年3月2日
田淵広七五十四才

さあ/\だん/\の席/\替わり/\の席、又一日の日の席は生涯の席と言う。生涯の理を聞き分け。どうせこうせはこれは言えん言わんの理を聞き分け。人間というものは、身はかりもの、たった一つの心だけ我がもの。一つの心よりどんな理も出る、どんな心も受け取る中に、一つ自由自在という理を聞き分け。常に誠の理があれば内々睦ましいという理を出ける。常に誠の理が、自由自在と言う。又人を救けるという、真の心の誠の理が人を救けると言う、救かると言う。これより末永くの楽しみと、たすけ一条のため、こうのう一つの理を授けよ。さあ/\、あしきはらいたすけたまへ天理王命、と、これ三遍唱えて又三遍々々々三々々の理を授けよ。しいかり受け取れ、さあ/\受け取れ。

人を救けるという、真の心の誠の理が人を救けると言う

これも、注目。

 

 

明治22年5月10日
藤橋光治良三十二才

さあ/\だん/\の席/\、返やし/\の席をして、席に順序以ちて、一日の日の席生涯の心の理を以ちて。生涯の理は、どうせこうせと、難し事は言わん言えんの理を聞き分け。人間というものは、身は神のかしもの、心一つ我がもの。たった一つの心より、日々どんな理も出る。どんな理も皆受け取る中に、一つ自由自在という理を聞き分け。常々誠の心が天の理。天の理なら、直ぐと受け取る直ぐと返やす一つの理。又一つ、人を救けるという、真の心の誠の理が、人を救けると言う。誠は常という、日々という。日々誠一つと治めば、内々睦まじいという理を治まる。日々常に誠の理をあれば、自由自在。これまでの理は、めん/\心に治め。これよりたすけ一条のため、こうのう一つの理を授けよ。さあ/\、あしきはらいたすけたまへ天理王命、と、これを三遍唱えて又三遍々々々、三々々の理を授けよ。さあさあ受け取れ、さあ受け取れ/\。

人を救けるという、真の心の誠の理が、人を救けると言う。

もちろんこれも、注目。

これら3つのお言葉を見ると、「人を救ける心は真の誠」という意味に込められた別の意味が浮かび上がってきますよね。

つまり「真の心の誠の理によって、人を救ける」という意味です。

誠の心で日々を通るところに、神様がお受け取りくださる理ができる。その理が人をたすける元になる、というわけです。

日々誠の心で通ることが、人を救けるための理づくりとなるんですね。

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「人を救ける心」=「真の誠」という意味は間違ってはいない

 

だからといって、「人を救ける心」=「真の誠」という意味が間違っているわけではありません。

上に挙げた3つの「おさしづ」は明治21〜22年までの「おさづけさしづ」ですが、明治23年になると、現在の「おかきさげ」の文章とほぼ変わらなくなってきます。

徐々に文章が充実してくるんですね、より詳しく説明するために。

例の一文もこんな感じに仕上がってきます。

「人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かると言う。」
(明治23年3月20日)

つまり、「人を救ける心」=「真の誠」という図式は間違っているわけではなく、より詳しく説明するために補足的に加えられた、というわけです。

 

まとめ

「おさづけさしづ」をさかのぼって見ていくと、「人を救ける心は真の誠」の意味は2つあると分かります。

  • 「人を救ける心」=「真の誠」
  • 真の心の誠の理によって、人を救ける

 

「おかきさげ」は用木になったその時にいただくわけで、そこには「信仰者としての角目」が書かれています。

用木となった以上、お道のために何かしたいって思いはありますよね。
「人だすけをしなければ!」って思いますよね。

でも、なかなかできない。

てか、何が人だすけになるの?って感じじゃないでしょうか。

「おかきさげ」では「真の心の誠の理が、人を救ける」と諭されています。

何か特別なことはしなくても、日々を誠の心で通ること。
これでいいんじゃないでしょうか( `・ω・´)ノ

今日も成人しましょう!

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