思い込みの呪いを解く。教会のUL化。コンサマトリーな信仰。

ごぶさたしております( `・ω・´)ノ

ちょっと頭の整理として、今ぼんやり思っていることを言語化しております。

下書きもなく、今まさに思っていることのメモでして、誰かにお読みいただく体をなしていないかもしれませんが、備忘録として。

まず、ここ最近のテーマとしては、

  • 既存のシステムによって規定されている「思い込み」「〜べきだ」「ふつう〜する」といった呪いを解くには?
  • つまり既存のシステムにおける標準的なモノサシをメタ認知するのはどうすればいいんだろう?
  • 新たなモノサシを手に入れるには、頭でっかちに議論するよりも体験によって腹落ちさせる方がよさげ
  • 教会のUL化

みたいなことを考えてます。

いっこずつ整理してきます。

思い込みの呪いを解く。システムの呪いをメタ認知する。

このブログの最初の記事も「もっと混じり気のない教え」に根付いた信仰がいいよねー

みたいな話で、要するにそれは

「目の前にある普通、既存のシステム」に対してクリティカルなまなざしで見つめ直そうぜ、というメッセージを含んでいます。

そこはずっと変わっていないみたいです。

で、当時と今と明確に違うのは、

当時は「組織を変える」といった発想が、それこそ最近まであったわけなんですが、これはシステムの転換を意味します。しかし、今はそれだとダメだなと思ってます。

過去、システムを変えようとしたあれこれの活動は歴史がうまくいかないと証明しているといいましょうか。共産主義がうまくいかなかったのも、根本的にはシステムにフォーカスし、システムが変われば世の中が変わるという発想に根付いていたからだと思います。

結局、世の中を変えるのはシステムではなく、そのシステムに投げ込まれ、そこで生きている人々の「ものの見方」が変わらない限り世の中は変わらない。

システムの中で生きている人々に「このシステムが違う」と訴えても、現実はあまり変わらないし、変わったとしてもうまくいかない。

補足ですが、ここでいうシステムとは単に制度(教内の文脈でいうと、教会制度)に限定された話ではありません。それも含めて、文化、価値観、慣習など、あらゆる価値判断に影響を及ぼす要素の総体として、広い意味でシステムと曖昧ではありますが、定義しています。

じゃあ世の中を、現実を変えるには?

まず、急激な変化を求めないことが大事ではないか、と考えています。

時間感覚そのものが「もっと速く、もっと多く」にとらわれていたと自分で反省しています。




牧野伊三夫は『僕は、太陽を飲む』の中で、

「君たちが絵を描いているときも、地球の裏側では、羊がのんびりと草を食んでいるんだよ」

と。

最近は登山にはまっていまして、テント担いで山の中で泊まってきたりするのですが、静寂に包まれた深い闇の中に投げ込まれたとき、この当たり前のことに気づかされる。

自分が世界だと思っているものは、単なる社会でしかなく、その社会の外側には「世界」が広がっている。

その視座から自分のアイデアを見つめ直すと、拙速な成果を求めるがあまり、システムの転換にとらわれていたのかもしれません。

「もっと多く、もっと速く」へのトラワレ。

自分がこのトラワレをメタ認知できていなかったあまり、拙速な成果を求めてしまっていたように思います。

それではうまくいかないだろう、と腹落ちしています。

だからこそ、システムに投げ込まれている我々が、新しい価値判断基準を手に入れる。

言葉を換えると「新たな豊かさ」を自分で見つける。誰かが語る「信仰の喜び」ではなく、自分で自分なりの「信仰の喜び」をつかむ。

他者は関係ない。自分で。

システムがどうあろうと関係ない、自分で自分なりの信仰から得られる豊かさを。

そのために、なにかできることはないかなぁ?

誰もがシステムに投げ込まれているからこそ、そのシステムが無言のうちにおしつけてくる価値判断のモノサシが、自らの思考や行動を縛り付けている「呪い」となっていないか?より慎重に見つめ直さなければなりません。

その呪いを解くということ。

新たな豊かさを、その人なりの豊かさを手に入れること。

この2つが中心テーマなのかもしれません。

コレを書いていて思いました。

教会のUL化

登山界隈ではUL化というのがトレンドとなっているのですが、ULというのはウルトラライトのこと。

山に入るときは自分で荷物を全部もっていくわけですが、そこで余計なものを持っていくと大変なわけですね。なんせ重い。しんどい。遭難リスクも上がる。あぶねーし。

そんなわけで、余計なものをそぎ落とす。ピュリファイして、大事な物だけ残す。これがUL化なわけです。

登山にのめり込んでいくうちに「教会のUL化」というアイデアに自然にたどり着きました。

これ、やはり最初の「混じり気のない教えを」というメッセージから変わっていないですね。笑

根本的な発想の軸はそこにあるのでしょう。

教会のUL化っていったいどのようなものでしょうか?

自分でも分かりませんが、

やはり誰も必要としていないような惰性で行われているような行事だとか、

おいりこみがあると高級な桃を持って帰ってもらうといった慣習だとか、

そういうのでしょうか。

アイデアが偏り過ぎてるし、稚拙ですね。笑

まぁでもここで言いたいのは、方向性として「教会のUL化」というコンセプトを提示したい。

そんなこともまたテーマとして考えています。

信仰の活動化への反省、コンサマトリーな信仰へ

はい、もうひとつ。

これもやはり「成果」へのトラワレに近しい反省なのですが、気づけば信仰が「目的化」してはいないだろうか?

  • 教会を充実させるために行事をする
  • 信者を増やすために○○をする

こういうアイデアって自然に頭に浮かんできませんか?

総じて、「天理教をよくするために○○をする」といったものはすべて目的的な活動のように思います。

それが要らない、といっているわけではありません。

このあたりはデリダの脱構築的な発想、中道的な発想を説明しないといけなくなるので今は避けますが、フォローでもなんでもなく、バランスが大事だと思っています。

ただ、どうしても目的的な活動に寄せてしまうと、目の前のことが「手段」となってしまいます。

信仰が「活動化」「手段化」することで、そこから得られる瑞々しい喜びは得にくくなってしまう。

登山というのは、あくまでも僕の主観的な解釈にすぎませんが、頂上を目指すといった目的的な活動ではありません。目指すプロセスそのもの、道中から得られる喜びにこそ本質がある。

ただ歩いているだけで楽しい。言葉では到底表現できません。

別に頂上にいけなくても、途中で引き返すことになっても、十分に愉しい。

頂上を目指しながらも、目指していない。

登頂を目指しながらも、登頂することだけに意味があるわけではない。

成果を目指しながらも、プロセスから喜びを得る。

僕は登山をそんな活動だと捉えています。

ずっと成果を求める発想にとらわれていたからこそ、リハビリのように、プロセスから得られる喜びを感じようとしているのかもしれません。

「道」とはプロセスである

この教えが「お道」と言われる以上は、本来はそこにこそ信仰の喜び、瑞々しさがあるのではないか、と思うのです。

陽気ぐらし世界の実現

といった目的へ向かいながらも、そのプロセスにこそ意味がある。喜びがある。

その意味で、今のお道はどうなのでしょうか?

プロセスから得られる喜びを感じられている人はどのくらいいるのだろうか?

と、思わざるにはいられません。

そして、その喜びを回復したほうがいいよね!

と僕は思っているのだと思います。

だから、

  • 既存のシステムによって規定されている「思い込み」「〜べきだ」「ふつう〜する」といった呪いを解くには?
  • つまり既存のシステムにおける標準的なモノサシをメタ認知するのはどうすればいいんだろう?
  • 新たなモノサシを手に入れるには、頭でっかちに議論するよりも体験によって腹落ちさせる方がよさげ
  • 教会のUL化

みたいなテーマが浮かんでいるのかもしれません。

めちゃくちゃ雑な話でしたが、書くことでだいぶ整理ができた気がします。

また気が向いたら書きます。

今日も成人しましょう( `・ω・´)ノ