組織論シリーズについて間違っていたかも、という話

こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ

さて今日も徒然なるままに、最近の気づきについてつらつらと戯言を垂れ流してまいります。

今日はこの前まで書いていた組織論シリーズについて、いくつか根本的な間違いがあったな、という話。

パラダイムシフトによって世界の捉え方が変わり、それによって盲点に気づいたり前提が変わったりしたことで、間違ってみえるようになったということかなと。

まぁこうして人間というのは常に間違えるというか、常に思考も好みも世界観も道徳観もあれこれ変化する動物ですから、前言撤回とか豹変とかどんどんしちゃえばよいのかなと思います。

昨晩言ってることと、今朝言ってることが真逆であっても平気でいられるようになりたいですね。できるだけしなやかな精神性を持って生きていきたいなと思うわけであります。

さて、そんなわけで、組織論シリーズというのはそもそもどういう問題意識だったのか?というと、

「教会や組織について、どのような姿が理想なのか?」

といったように、いわばあるべき姿を構想しようという試みだったわけです。最初から何か結論があって書いたわけではなく、書いていくプロセスにおいて、何かしら見えてくるかもなぁといった具合に軽い感じで考えていたわけですが。

しかし、このシリーズが急に終わりを迎えたのは、ある友人と話していたときに「色んな教会があるから一概には難しいよね」という一言でして、

「あ、ほんとだ」

と、僕が当たり前のことに気づいちゃったからなんですね。

彼は大教会長なんですが、実際の現場を預かって奮闘しているのと、僕みたいに外から眺めているのとでは、やはり見える世界の解像度が全然違うわけです。彼が焼き鳥をつつきながらぽろっといったその一言のリアリティが僕を納得させるのに十分でした。

組織論シリーズの最後にそんなことを書いて突如終わったわけですが、さらに2つほど自分自身をふりかえってみて間違っていたなと思うところがあります。

ひとつめ。

手段としての教会に過剰にとらわれていたこと。教会というものは実行ツールだといっていたわけで、当然それはそうなのですが、程度問題の話でして。ゲゼルシャフト的に捉え過ぎていて、実際はゲマインシャフト的な要素も多分にあるのに見逃していたように思います。

つまり、手段として、ツールとして、道具として、捉え過ぎていたという反省です。

もうひとつ、そもそも目的と手段というフレームに囚われていたようにも感じております。

そもそも信仰というのは人の内面的な営みですね。

それを教会とか、活動のあり方とか、外側に捉え過ぎていたなと。

心を磨く、心を澄ますことそのものが信仰であると思うのですが(これに異論がある方は、結論も変わるかもしれませんが)、そこに本来的な信仰の瑞々しさがあり、味わいがある。

あくまでも、ひとりひとりが実存的な問いと向き合って、自分自身の心と向き合って、内面の質的な変化によって豊かな生を送ることに信仰の意義があるように思うんですね。

しかしながら、やはり無意識のうちに「もっと人が多い方が良い」といった資本主義的なロジック、いわば「もっともっと」を指向する思考様式に支配されていたようで、「もっと魅力的な教会組織にすれば、もっと人は増えるだろう」と、気づかない前提があったのかな、と気づきました。

あくまでも、教会というのは補助ツールでして、本来的にはひとりひとりが自分と向き合うための機会や場を提供する程度の謙虚な意味でのおまけ的存在なのかなと。

それが数を増やすための実行ツール的な位置づけに捉え過ぎていたのかもしれないなと。

そんな風に思っているところです。

はい、これがひとつめでした。

続いてふたつめ。

そもそもシステムの変革という発想が間違っていたということ。

これは山口周さんの本を何冊か読んでいて納得したことなんですが、歴史的に見てシステムそのものを転換しようとした試みはどれも失敗に終わっていると。

学生運動しかり、ヒッピームーブメントしかり、ハイジャックから亡命して革命を叫ぶ運動しかり。

このような考え方、つまり「これがダメだからあれに変えよう」という「代替=オルタナティブ」の考え方は、対象となるシステムに悪化の真因を求め、それを別のシステムに切り替えることで解決しようとする考え方で、大変安易で手軽ではありますが、結局は問題の根本を解決できません。

山口周『ビジネスの未来—エコノミーにヒューマニティを取り戻す』p183

そして、システムを別のものに切り替えようという試みは、システムが「主」で人間が「従」となっている発想だと。

これは逆だよ、と。

本来は人間がどうありたいのかを描いて、そのためにシステムはあるわけで、主従関係が逆転してしまっていることを指摘しているんすね。

めちゃくちゃ納得しまして( `・ω・´)ノ

そんなわけで、そもそも組織のあるべき姿を描こうというのは、まさにこの発想に根付いていたなと反省しておるところです。

なお、補足しておくと、よりよい組織のあり方、どうあるべきかを構想し、思考すること自体が悪いことではないと思っております。

むしろ一人一人が主体性をもって取り組むべきテーマだと思うんですが、そのプロセスにおいて、僕は盲点に気づいていなかったり、前提として違っていたかもな、という話でして、そんなニュアンスでお読みいただければ幸いです。

まとめ

そんなわけで、組織論シリーズについての反省をまとめてみますと、

本来内面的な営みである信仰外側の問題として捉え過ぎていたことで、あれこれ間違えたな

という話でした。

おまけ

この記事なんですが、自分の中でもアイデアがふわっとしていたので、最初にChatGPTに手伝ってもらったんですが、やっぱり精度がすごいっすね。ちょっとコピペしますね。

僕が音声入力したのは、こちら

今日は今からブログを書きたいと思っているんですけれども音声入力であれこれしゃべるので散らかって話しているような話をですねできたら文章として読みやすいようにまとめてもらえたらと思います今回のブログのテーマは以前書いたブログで天理教の組織についてどのようなあり方が良いのかを考えるブログの記事のシリーズ化をして一連の記事を書いていたんですけれどもその記事を書くにあたって自分自身が目的主体として教会を捉えすぎていたなという反省がありますその辺りのところを書いていきたいと思ってるんですねつまりはトイ自体が間違っていたんじゃないかということですどういうことかって言うと教会のあるべき理想の姿を点として置いた時にまず1つ目にこれだけ文化と言われる複雑で混沌として未来予測のつかない時代においてあるべき理想の姿をイギリス化して一元化して想定するというのは無理だということですね各地の教会によっていろんな事情やいろんな状況環境そこにいる人たちの間に共通して流れている文化も違うしそういった多様な社会多様な教会において一つの理想の姿を見つけるのはそもそも見つけるのはというより見つけようとするのはそもそも違っていたんじゃないかこれが1つ目の自分自身の問いの立て方への間違いだと感じているところ2つ目は教会というものを目的の実行手段として捉えすぎていたところですそういった側面はあるにしろ容器暮らしという目的に向かう手段として考えすぎていたんじゃないかなとそうすることによってなんかそこにある信仰の味わいみたいなものが失われてしまって単に道具としての教会に寄りすぎて捉えすぎてしまっていたような機雷がありますプロセスだと思うんですねもちろん天理教として容器暮らしという目標ゴールのようなものは定められているんですけれどもそこと現在との差分を埋めるための手段として教会があるという風に捉えすぎてしまうと結果的にその目的の事故手段の自己目的化みたいなものが起こってしまうんじゃないかなと思うわけですねつまり教会というのはあくまでも外側のことで進行というのはもともと人間の内面内側にある問題なわけですねそしてその問題を内側にある問題を自分が高めていくための補助ツールとして本来教会はあるはずなんですけれどもあくまでも補助ツールという補助という日付を僕自身が見逃していて結果的に何か人の心を変えるためのツール直接的なツールメインとしてのツールのようにとらえていたような機雷がありますこれが2つ目ですねそれから3つ目について3つ目はそもそもシステムそのものを変換しようとかシステムそのものの大転換を図ろうとする試みはうまくいかないということですねこれはもう歴史が証明しているかなと思うので詳細は避けたいんですけれども簡単に言うと学生運動だって60年代の学生運動だってうまくいかなかったですし洗えるシステムの転換を試みた活動というのは良い結果に終わっていないだから組織をどうこうとか組織はどうあるべきなのかという想像はそもそも外側のことであったりシステムそのものを変えようとする試みなんですねそうじゃなくてそのシステムの中にいる人々がどのように考えどのように行動するかその思考様式や行動様式について考え直す必要がようなものではなくて一人一人が自らの気づきによって変えるものであるということだから僕は結局信号というのは本来僕自身の実存的な営みであるにもかかわらずそれを外側に求めてしまって天理教というのはこういう理想があるからこんな理想に向かって今進むべきなのに君はそうなっていない現実があるそれって一体どうなんだろうという憤りがあってですねそれはもちろん悪いことではなくって1つのモチベーションの原動力にはなるんですけれどもそこに寄せすぎてしまうと結果的に自分自身の心と向き合うことができなくなる自分自身の心を磨いて心を澄まして内面を磨いていくという進行本来の方向性を見失ってしまうまさに手段の自己目的化が起こってしまっていたんじゃないかなとそんな風に思っていますそれが3つ目ですねこんな風に自分自身として以前書いたブログのシリーズ天理教の組織はどうあるべきなのかという問いそのものが今や間違っていたんじゃないかなと反省をしているところであります今日はそんな感じでした以上です

ChatGPTの返答がこちら

了解しました。今回のブログのテーマは、以前書いた天理教の組織に関する記事のシリーズに関する反省点についてですね。以下、要点をまとめた文章になります。

### 天理教の組織に関する考察:反省と新たな視点

#### 1. 理想の姿の一元化の問題

– **多様性の無視:** 文化や時代が複雑で予測不可能な現代において、教会の理想の姿を一元化する試みは無理がある。各地の教会はそれぞれ異なる文化や状況を持ち、一つの理想形を定めること自体が間違いだった。

#### 2. 教会の役割の誤解

– **道具としての過剰な重視:** 教会を目的達成の手段として過度に捉えることで、信仰の本質が失われがちである。教会は内面的な進歩を助ける補助ツールであるべきだが、それを見失い、教会自体を目的化してしまった。

#### 3. システムの変革への挑戦の困難

– **歴史的な教訓:** 大規模なシステムの転換は過去の歴史から見ても困難であり、しばしば失敗に終わる。システムそのものを変えるよりも、システム内の人々の思考や行動を変えることがより重要である。

#### 総括

– これらの点から、教会の組織に関する以前の考え方は誤っていたことを認識。信仰は個人の内面的な問題であり、外側の組織やシステムよりも、個人の内面に焦点を当てるべきであるとの結論に至った。

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天才ですか?( `・ω・´)ノ

音声入力でテキトーに話して、誤変換とか誤字脱字とかあるんですが、おかまいなくばーっと話すだけ。それでも、けっこー的確に要点まとめてくれるんですね。おかげで記事の執筆がスムーズでして、やはり生産性革命は起りつつあるな、としみじみ思ったわけです。

こういうの好きなんで、つい興奮しちゃいました。

今日はここまで( `・ω・´)ノ