こんにちは、サンシャインひさまつです。
年末のガキ使おもしろかったですね。
いまだにYoutubeで何度も見返してしまいます。はやく子どもが大きくなって「ちくびドリル」を仕込みたいです、まだ寝返りもできませんが。
基本教理って言われたとき、何を思い浮かべますか??
何が基本かってのは、定義するのが難しすぎて、もはや正解なんてないんじゃないかと思いますが、よく言われるのが「十全の守護」と「八つのほこり」かなと思います。
最近では道友社から「十全の守護」と「八つのほこり」が裏表プリントされた一枚物の紙が出たりして、密かなブームになりつつあるという話を聞いたことがあるようなないような。
(ないです。)
ただ、ぼくはこれこそ空前絶後の超絶怒濤の大ブームになってほしいんですよね。
というのも、ぼくはこのブログでひたすら「おかきさげ」を推してるんですが、「十全の守護」&「八つのほこり」は「おかきさげ」と切っても切れない関係があるんです。
今回はその辺のところについて。
「おかきさげ」の諭しの要点はこの2つだ!!
「おかきさげ」の諭しの要点は、
- かしもの・かりもの
- 誠
の2点です。
詳しくは過去の記事をご覧ください。
この「かしもの・かりもの」と「誠」の2点が、実はこんなふうにつながってるんです。
「十全の守護」は「かしもの・かりもの」とセット
「十全の守護」といえば、「この神様は○○というご守護」というのをイメージするんじゃないでしょうか。
神社でいえば、「この神様は縁結びの神様だ」とか「あの神様は学業の神様だ」といったような感じ。
それはそれで分かりやすいし悪くないのかもしれませんが、もう一声ほしいところ。肝心要のところが抜け落ちているんです。
先人の先生方が「十全の守護」について語られるとき、実は「かしもの・かりもの」とセットで語られることが多かったのです。
例えば、
教の理
当神様において、人間身の内は、神のかしもの、めい/\にとりては、かりものと聞かせられまするは、第一に、
くにとこたちのみこと様が、目、胴、うるおいの御守護、世界にては、水。天に月様と現れて、
…中略…
以上、月日様をはじめ、十柱の神様のおかげをもって、人間は生き、働き、つとめさしていただけるのであります。そこで、身の内は、神のかしもの、めいめいはかりものと仰せられます。
諸井政一『改訂正文遺韻』p152-153
とか、
和歌体十四年本(山澤本)
かみさまのかりものなるハいちにがん(※眼) これハ月さまかりものなるぞ
みのうちのぬくみいゝさいひいさまの かりものなるやこれ南無とゆう
中山正善『こふきの研究』p70
こんな具合に、十柱の神様が語られるときは、かしもの・かりものとセットになっていることが多いんです。
『天理教教典』だとセットに見えないけど、実は
『天理教教典』では、「十全の守護」は第4章「天理王命」で説かれています。
一方、「かしもの・かりもの」については、第7章「かしもの・かりもの」で説かれています。
パッとみただけでは、つながりが見出しにくいんですよね。
でも、実は天理教教典を編纂するとき、「十全の守護」と「かしもの・かりもの」はセットであることが明確に意識されているんです。
それは『天理教教典稿案講習録』を見ればわかります。
この本は『天理教教典』が編纂されたときの記録が書かれているものです。
正確には「第十三回教義講習会」の記録です。昭和23年に『天理教教典稿案』が発表され、それにもとづいて開かれたのが「第十三回教義講習会」。この翌年の昭和24年に『天理教教典』が公刊されました。
この記録の中に、
古い書物、又昔の教祖様から直接教をうけられた先輩の先生方のお話、そうしたものを思案さして頂きますと、人間の身のうちのめどううるおいは、「この神様からのかりもの」或は「この神様のかしもの」こういう風にお書き下さってあるのであります。
…中略…
ここの「人間身の内の……の守護の理」とあるところは、実を申しますと、「この神様のかりもの」というように書かれてあったのでありますけれども、ここで余りにかりものということを詳しく説きますと、あとの第七章と重複する嫌もあり、ややこしくもなります所から、ここではご覧のような書振になっております。そういうお心持でお読み頂きますれば、この文章の成立がおわかり頂けると思うのであります。
『天理教教典稿案講習録』p147
赤字のところに注目すると、本当は「この神様のかりもの」って書きたいんだけど、全体の構成を考慮したときにカットした、とあります。
つまり、「十全の守護」と「かりもの・かりもの」はセットとして考えられているというわけです。
「八つのほこり」と「誠」はセット
「八つのほこり」と「誠」についても、先人の先生が書かれたものを見てみましょう。
諸井政一『正文遺韻』に載っている「教の理」には、
- 八つのほこり
- 誠真実
という順番で小見出しがでています。
「八つのほこり」の説き分けのあとに「誠真実」がきてますよね。
これだけでもセットってことが十分わかるんですが、本文を見ればさらにハッキリと分かります。
誠真実というは、ただ正直にして自分さえ慎んでいれば、それでようというわけのものじゃありません。誠の理を日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。
…中略…
そこで、八つのほこりも、わが心につけんばかりでなく、人にもこのほこりをつけさせんように、せにゃなりません。
まず己がほしいものならば、人もほしいにちがいない。人にほしいという、ほこりをつけさせまいと思えば、わがものもわけさして頂くようにし、一つのものは半分わけても、ほしいのほこりを、つけさせぬようにするのが、真実、誠のはたらきです。
『改訂正文遺韻』p157-158
ほこりの心遣いを自分がしないばかりでなく、人にもそうさせないようにするのが誠真実だ、と説かれています。
こんな感じで、昔は「八つのほこり」と「誠」ってのはセットで語られていたんですね。
もう一つ最後に付け加えておきたい
ここまで「十全の守護」は「かしもの・かりもの」とセット、「八つのほこり」は「誠」とセットって話をしてきたんですが、もう一つ付け加えておくと、これらは次の図のような関係であると言えそうです。
十全の守護であれば、その守護の理を知ることで、より具体的にしみじみと「かりもの」のありがたみを感じることができる。
例えば、ぼくはぜんそく持ちなので、日々「かしこねのみこと様のおかげで今日も元気に呼吸ができる、ありがたいなぁ」なんて感じで、おつとめ中に心に浮かべてたりします。
「十全の守護」を知ってると具体的に感謝ができるというか、「ありがたいなぁ」と思える回数が増えるような気がするんですよね。うまく言えないですけど。
で、八つのほこりであれば、それを知ることで、日々に「誠」の心遣いをするための具体的な基準を持つことができる。
先に挙げた例のように、自分がほしいなら人もほしいかもしれないから、自分のものも分けさせていただく。それが誠やで、と。
こんな感じで、「十全の守護」や「八つのほこり」を知っておくことで、日々より具体的に「かしもの・かりもの」「誠」が意識できる場面が増えるはずです。
まとめ
今回の内容をまとめると、
「十全の守護」は「かしもの・かりもの」を具体的に諭したもの。
「八つのほこり」は「誠」を具体的に諭したもの。
というお話でした。
このブログでぼくはひたすら「おかきさげ」を推しつづけてますが、「おかきさげ」で諭されていることを、日々を過ごす中で、具体的に意識させてくれる教理が「十全の守護」と「八つのほこり」であると言えそうです。
つまり、基本教理ってのは「おかきさげ」の生き方を実践するためのコツみたいなもんだと思います。
そんな生き方ができるように、機会があれば「十全の守護」と「八つのほこり」の説き分けを読んでみてはいかがでしょうか。
「おかきさげ」の生き方ができたらきっと楽しいよ( `・ω・´)ノ
ちなみに、わたしはほこり界の最高名誉「八つのほこりの権化」の称号を持っています( `・ω・´)ノ
今日も成人しましょう!