こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ
「おかきさげ」の解釈についてあれこれ書いてきたんですが、ついにきちゃいました、最難関エリア…。
はっきり言ってここが一番ややこしいところだと思っております。
どこ?
ここです。
又一つ、これまで運ぶという、尽すという。運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。互い扶け合いというは、これは諭す理。
人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。よく聞き取れ。
又一つ、これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め。
先に断っておくと、後で紹介する青のマーカー部分の解釈については、すでにこちらの記事に梅田論文をベースにまとめてあるので今回は深掘りしません。
今回は、赤と緑のマーカーにしたところに注目したいと思います。
この2つ、同じような表現が並んでますよね?「これまで運ぶ尽す」ってところ。
同じような表現を使ってるので、同じことがらを指しているように思うじゃないですか?
でも違うんですね。
ややこしいでしょ?( `・ω・´)ノ
今回の記事の重要ポイントなので、もう一度言いますね。
赤と緑マーカーでは、「これまで運ぶ尽す」の意味するところが全然違います。
どのくらい違うかというと、僕とジョニーデップぐらいちがいますね。どちらもイケメンなんですけどね( `・ω・´)ノ
赤と緑マーカー部分の違いに注目して意訳を読んでみよう
赤と緑のマーカーにおける「これまで運ぶ尽す」の意味は、どんなふうに違うのか?
後から詳しく説明していきますので、ひとまずこの意訳を読んでみてください。僕が勝手に訳したものです。
そこには存分に認知バイアスの介入があると思いますが、分かりやすくするためにあえて、背景にあるニュアンスまでもりもりに盛り込んで書いてます。そのつもりで読んでください。
又一つ、これまで世のため、道のため、人のためにあなたは尽くしたり運んだりしてきたよね。それってまさに互いたすけあいだよね。その互いたすけあいの姿は、人を諭す理(説得力)になるんだよ。
人をたすける心は真の誠である。誠の心で日々を通るところに、神様がお受け取りくださる理ができて、その理によって人をたすけることができる。そして、その理によって結果的にあなた自身がたすかるんだよ。
(だからこそ)これまで「おかきさげ」で諭してきた理(=「かしもの・かりもの」&「誠」)については、日々たがいたすけに運んだり尽くしたりする上で、内々&めんめんの心に治めなさいね。
こんな意味になると解釈しております。
赤と緑の「これまで運ぶ尽す」の部分を比べてみてください。
赤では、
これまであなたが日々運び尽くしてきた理
緑では、
これまで「おかきさげ」で諭してきた理
というように違っているんですね。
もうこの時点で「いや、ありえねーだろ」とか「解釈に無理がありすぎるわ」という声が聞こえてきそうですが、実はこの違いについてはすでに松山先生が論文にしてくれています。
先に緑マーカー部分の解釈から!どうしてそんな解釈になるの?
緑マーカーの部分とは、ここのこと。
(だからこそ)これまで「おかきさげ」で諭してきた理(=「かしもの・かりもの」&「誠」)については、日々たがいたすけに運んだり尽くしたりする上で、内々&めんめんの心に治めなさいね。
この解釈については、松山先生の論文に依っております。
松山常教『「おかきさげ」の解釈について』(『天研』第10号)
この論文の結論部分を引用しますね。
「これまで運ぶ尽す一つの理」とは、先行研究でのこれまで運んで尽くしてきた理」という意味ではなく、それぞれの「おさづけさしづ」あるいは「おかきさげ」において諭されている、かしもの・かりものの理と誠の二つを要点とするお言葉の内容を指している。「これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め」とは、互い扶け合いに、運び尽すうえで、内々の事情、銘々の事情において、その二つのことがらを心に治めるように諭されたお言葉である。
松山常教『「おかきさげ」の解釈について』(『天研』第10号)
要するに、従来は、
又一つ、これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め。
ここの太字部分を「これまであなたが日々運び尽くしてきた理」という意味に解釈していたようだけど、「おさづけさしづ」を遡ってみるとどうも違うっぽいぞ!
本来は、「おかきさげ」において諭されている、かしもの・かりものの理と誠の2つを指しているんだぜ!
というわけです。
そういえば、以前この論文をかみ砕いて説明した記事があるので、もう少し詳細な論理展開については、そちらを読んでみてください。
というわけで、緑マーカーの部分の解釈については、松山論文に依拠しまして、一件落着とさせてください。
赤マーカー部分の解釈はどうしてそうなるの?
つづいて、赤マーカーの部分をみていきましょう。まずはもう一度「おかきさげ」の当該部分を引用します。
又一つ、これまで運ぶという、尽すという。
運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。
互い扶け合いというは、これは諭す理。
続いて、僕の解釈を見てみてください。
又一つ、これまで世のため、道のため、人のためにあなたは尽くしたり運んだりしてきたよね。それってまさに互いたすけあいだよね。その互いたすけあいの姿は、人を諭す理(説得力)になるんだよ。
この意訳では「これまで運ぶという、尽すという。」の箇所を「これまであなたが日々運び尽くしてきた理」と理解しています。「これまでおかきさげで諭してきた理」とは理解していません。
なぜそうなったか?説明します。
まず僕の解釈のベースになっている論理構造はこちらです。
- これまで運ぶ尽す=互いたすけ
- 互いたすけ=人を諭す理
このようなイコールの論理を前提として、解釈してみたんです。
じゃあ、このイコールの論理はどこからきたかというと「おさづけさしづ」です。いくつかここで「おさづけさしづ」の一部を引用しますと、
- 互い扶け合いは、日々運ぶ理。(M22.8.1)
- 互いや扶け合いは日々尽す理。(M22.9.3)
- 互い/\扶け合いは諭する理。(M22.11.11)
とあるんですね。
これらのお言葉から、
互いたすけ=運ぶ理・尽す理=人を諭す理
といった具合に、3つそれぞれにイコールの関係が成立すると思ったんですね。
ここまでよろしいでしょうか?
イコールの論理をベースにして比較してみた
このイコールの論理を前提として、運ぶ理・尽す理のところに赤と緑をそれぞれ当てはめます。
- 運ぶ理・尽す理=これまであなたが日々運び尽くしてきた理
- 運ぶ理・尽す理=これまでおかきさげで諭してきた理
そして、これらを比較してみましょう。
1.運ぶ理・尽す理=これまであなたが日々運び尽くしてきた理の場合
まずは1番から見ると、
互いたすけ=これまであなたが日々運び尽くしてきた理=人を諭す理
といった具合になります。僕としてはしっくりきます。あなたはどうでしょうか?
2.運ぶ理・尽す理=これまでおかきさげで諭してきた理
一方で2番。こちらは、
互いたすけ=かしもの・かりもの&誠=人を諭す理
となるわけですが、どうもしっくりきません。
かしもの・かりもの&誠=人を諭す理
ここのイコールについては、「おかきさげの要点であるかしもの・かりもの&誠の話は、人を諭すときにお話する理だよ、という意味に理解してもよさげ。ここだけ見ればOKな気がします。
でも、一方で、
互いたすけ=かしもの・かりもの&誠
がどうもしっくりきません。他の「おさづけさしづ」を見ると、文脈的におかしいと思うんですね。
例えば、
- 又運ぶ尽す中互い/\扶け合いは諭する理。(M22.11.11)
- これまで運ぶ尽す中に、互い/\扶け合いは諭する理。(M22.10.15)
- これまで運ぶ尽す中に互いや扶け合いという、互い扶け合いは諭する理。(M22.12.10)
これらの「おさづけさしづ」を、
互いたすけ=かしもの・かりもの&誠
を前提として読んでみると、どうもしっくりこないと思いませんか?うまく訳せないというか、訳に無理が出ると言いますか。
というわけで、僕は…
互いたすけ=これまであなたが日々運び尽くしてきた理=人を諭す理
として、理解すべきだと思ったわけです。
これをふまえて、もう一度僕の意訳を見てください。
又一つ、これまで世のため、道のため、人のためにあなたは尽くしたり運んだりしてきたよね。それってまさに互いたすけあいだよね。その互いたすけあいの姿は、人を諭す理(説得力)になるんだよ。
という解釈をしましたが、そう無理はないと思うのです。いかがでしょうか?
補足としてもう一つ
僕がこの訳にいたった理由として、もうひとつ補足しておくと「おかきさげ」の最後の部分にこうあるんですね。
又一つ、第一の理を諭そう。第一には、所々に手本雛型。諭す事情の理の台には、日々という、日々には家業という。これが第一。
又一つ、内々互い/\孝心の道、これが第一。
二つ一つが天の理と諭し置こう。さあ、これより先永く変わらん事情に。
ここは、
日々あなたが、家業や内々孝心(=互いたすけ)の上に励むその姿が、諭す事情の理の台(=説得力)が生まれるんだよ。
という意味に理解しているのですが、これはそのまま、
互いたすけ=これまであなたが日々運び尽くしてきた理=人を諭す理
と同じ論理構造だと思っております。
まとめ
まとめに入りましょう。
赤と緑のマーカーそれぞれにある「これまで運ぶ尽す」という箇所に注目し、その意味の違いについて深掘りして見てきました。
「これまで運ぶ尽す」というよく似た表現ですが、
赤では、
これまであなたが日々運び尽くしてきた理
緑では、
これまで「おかきさげ」で諭してきた理
といった具合に、意味が違っているんですね。
このことを踏まえて、「おかきさげ」の例の部分を解釈すると、
又一つ、これまで世のため、道のため、人のためにあなたは尽くしたり運んだりしてきたよね。それってまさに互いたすけあいだよね。その互いたすけあいの姿は、人を諭す理(説得力)になるんだよ。
人をたすける心は真の誠である。誠の心で日々を通るところに、神様がお受け取りくださる理ができて、その理によって人をたすけることができる。そして、その理によって結果的にあなた自身がたすかるんだよ。
(だからこそ)これまで「おかきさげ」で諭してきた理(=「かしもの・かりもの」&「誠」)については、日々たがいたすけに運んだり尽くしたりする上で、内々&めんめんの心に治めなさいね。
といった具合に理解できると思っております。
以上!
今日も成人しましょう( `・ω・´)ノ