「○○すべき」を手放すと見える景色が変わるかも。僕は変わった、って話。

こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ

今日も思いつきでブログを更新したいと思います。

いやー、ほんと音声入力&ChatGPTのコラボおかげでぐっと更新の心理的ハードルが下がりましたね。イイ時代すぎます。

先日、久しぶりにFacebookを開いたら、パイセンのイセサンの投稿が出てきました。

で、そこで天理教の青年会が運営するwebマガジン「フレグラ」なるものを発見したのですが、その中で特に心に刺さった記事がありましたので、ここでそれについて共有したいと思います。

その投稿のサムネイルを見たら、何やら知った顔がちらほらおりまして。

どれどれとニヤけながら読んでみたのですが、とても良かった。笑

その記事は「心を澄ます毎日を」というテーマでの座談会」でした。

その中に瀬戸さんという方の話が掲載されていて、面識はないのですが、彼の話がぶっささりました( `・ω・´)ノ

おおざっぱにいうと「○○すべきから解放された」という内容だったんですね。かいつまんで話すと、瀬戸さんは「○○すべき」という考え方が強く、例えば「おつとめは絶対に遅れずに行くべき」というような考え方が強かったそうです。

私は、「〇〇すべき」という考え方がとても強いんです。例えば、「おつとめは絶対に遅れず行くべき」とかです。でもその考え方でいると、妻が子どもの準備に手間取っておつとめに遅れたら、わざと遅れたわけではないと分かっていてもものすごく腹が立って怒ってしまうんです。今からおつとめをしてほこりを払うのに、その前に自分も妻も子どももほこりだらけになってしまうという、矛盾したことをずっと続けてきたんですね。

でも、そうした自分の癖に気付けたのは、「教えに基づく対話」がきっかけでした。それからは、「〇〇すべき」という考え方を一旦横に置いて、今、目の前のこの瞬間を楽しむことができるようになったんです。おつとめに間に合わないかもしれないけれど、妻と子どもに喜んでもらおうと準備を手伝えるようになり、心がとても楽になりました。信念を持つことも大切ですが、純粋に目の前のことを楽しむ心も、同時に持ち合わせたいですね。

めちゃ良くない?笑

思い返せば、僕自身、信仰が楽しめるようになった感覚が出てきたのは、思い込みをひとつずつ手放していったときだったんですよね。

本科にいって一つずつ思い込みを手放すことができた気がするんですが、そのときのことを思い出しました。んー、おっさんのノスタルジーなだけかもしれん( `・ω・´)ノ

元々教会の子として生まれ育ち、おつとめというのは本当に大事なものだから絶対に遅れてはいけないという強い思い込みを持っていました。いや、悪いことじゃないんだけど。笑

中学生の頃とか、友だちと遊んでいてもダッシュでチャリ漕いで帰ってましたからね。

でも、そういった思い込みがあると、結局信仰に無理があるというのか、なんとなく心の底から楽しめていない。やるべきこと、やらなければならないことと認知しているので、そこに息苦しさを感じ、自分自身が本当に楽しんでいる姿とは違っているように思うんですよね。

で、無理している信仰って続かないというか、「べき論」での信仰って長期的に見ると次世代にバトンが繋がらなくなったり、あまりよろしくないんじゃないか、と思っているんです。

僕自身は信仰を楽しむ心を持つことが大切だと感じています。で、そのひとつのカギになるのが思い込みを捨てること。

信仰とはこうあるべき、こうしなければ神様にお喜びいただけない、みたいな発想がベースになっていると、結果的に信仰って楽しくなくなるんじゃないか。

「○○すべき」という考えを手放すことが、信仰を楽しむためにはめちゃめちゃ大事だよなー。ってことを、この記事を読んだことで、改めて感じた次第です( `・ω・´)ノ

あと、信仰って、自分自身が間違った心の向きを修正していく営みですよね。それを行うためには、自分自身を客観的にモニタリングして、常に軌道修正が必要ですね。

その意味でも、思い込みが強いと自分が間違っている可能性を見れないわけで。

だから「○○すべき」という思考にがんじがらめになっている自分に気づけるのってめちゃめちゃ大事だと思うし、どんな思い込みを持っているのか、その思い込みが信仰の道から自分を遠ざけていないかを見つめ直すことは、信仰そのものをより正しい心の向きに整える意味でも、非常に有意義な活動だと感じています。

そんな気づきを得たもんですから、忘れないうちに記事にまとめておきました( `・ω・´)ノ

以上。

今日も成人しましょう!