お久しぶりです、ダメダメようぼくのひさまつです。
もう1年以上ぶりですね、ブログ更新するのは。
この1年、2人目が産まれると分かってから、ライフスタイルを変えるためにあれこれ動いてきました。
僕の仕事はどうしても夕方〜9時くらいになっちゃうんですよね。
でもその時間って家庭が戦場じゃないですか。保育園からお疲れで帰ってきてグダグダな3歳だけでも手を焼いているのに、それに加えて0歳児の赤ちゃんが産まれるとなると、母親のワンオペ育児が完全に無理ゲーになるなと。
これは夜に授業をするワークスタイルが限界だなと思って、1年ほど前から1:1の授業スタイルで募集するのをやめてしまって、もう一度ゼロから提供サービスを再構築することにしました。
そうこうしているうちに、2人目も産まれ、それに加えてコロナ禍で保育園もお休みになり…。
そら、まったく仕事になりませんな( `・ω・´)ノ
と感じながら今年の前半を過ごしてきたのですが、ようやく今とりかかっている仕事が完了しそうです。
こんな近況で、ちょっとブログを更新する時間ができたのと、きのうちょっと気になることがあったのでブログを書こうかなと思った次第です( `・ω・´)ノ
実はきのう青年会の「おたすけpicks」というwebセミナーに登壇してきました。
いやぁ、ほんとぼくはダメですね、しゃべり方が偉そうです。
偉そうにしている大教会長とかすごく苦手だし、ああなりたくないなぁと思いながら、自分が喋ったらくそ偉そうなんですよね、これはもう人間性の問題です、嫌になっちゃう( `・ω・´)ノ
参加してるメンバーの顔ぶれを見ると、この前オンライン飲み会をしたばかりの同級生もいれば、久しぶりの懐かしい同級生、愛知の青年会の委員さん、ビッグネームの名前も。どこから潜り込んだのか(青年会では決してないもはや老人会に近いはずの)父親の名前もあったり、2割くらいの方は知ってる顔ぶれで、やりづらーと思いながら、しゃべり出したら1%も遠慮なく偉そうにしゃべってました、てへぺろ( `・ω・´)ノ
今回はぼくの中では「信仰のハードル、おたすけのハードルを下げる」というテーマでして、
大雑把に内容を紹介すると、
・ぼくはあるときから「おたすけ=人に喜びや満足を与えること」と自分の中で定義した
・その定義が絶対の正解ってわけじゃないよ
・でも僕は人に喜んでもらえばそれでいいや、と割り切ってから信仰に対するモヤモヤは一切ないよ
・もしあなたが僕みたいに、主流の信仰を受け入れられなくても、こんなスタイルでの信仰やおたすけもあっていいんじゃないでしょうか
って話をさせてもらったわけです。
そもそもとして、僕は教理の本質に立ち返ってから、人それぞれ自分の信仰を見つめ直せば、もっとあらゆる信仰のスタイルがあっていいと思ってるんですね。粘土と同じ。
この前、娘と赤色の粘土で遊んでたんですが、トマトを作ったり、イチゴをつくったり。
元は同じ赤色の粘土ですが、いろんな形のものを作れるんですよね、粘土って。
信仰もこれと同じで、教祖が教えてくれた混じりけの無い教理さえつかめば、いろんな形での信仰スタイルがあっていい。
あとは、好みの問題だと思っているわけです。
きのうのお話でもちょっと紹介しましたが、ボブディランのOne Too Many Morningsという曲の中に、こんな歌詞があるんです。
It’s a restless hungry feeling
That don’t mean no one no good
When ev’rything I’m a-sayin’
You can say it just as good.
You’re right from your side
I’m right from mine
We’re both just one too many mornings
An’ a thousand miles behind
私の言うことが何でも
あなたにも同じように言えてしまうなら…
そう思うと飢えてざわついた気持ちがする
そんなのは誰にとってもまったくいいことではない
あなたの側からすればあなたが正しいのだし
私の側からすれば私が正しい。
人それぞれ、いろいろなサイド、立場、視点、ものの見方があってイイと思っているんです、本当に。
しかし残念ながら、僕は普通に喋っているだけで偉そうですし、あまり遠慮せずに喋るので、どうしても聞き手に主旨とは違って聞こえてしまうことが多々あります。
というわけで、ちょっと心配しています( `・ω・´)ノ
セミナーが終わってから、すがのけんちゃんと雑談してたんですね。
ちなみに、すがのけんちゃんは本科時代の同級生でして、お互いにまったく忌憚なく議論を交わせるありがたい存在でして、厳しいこともズバズバ指摘してくれるんで本当に助かっています。
その雑談してるときに、
「ちょっとエッジききすぎてない?バリバリの布教師の方も聞きに来てるのに、もうちょっとバランスをとった方がよかったんじゃね?」
って指摘をくれまして。
たしかに、言われてみれば、僕は主流の信仰が受け入れられなかったダメダメようぼくなんですという話はしましたが、聞こえ方によっては、主流の信仰をdisってるように聞こえちゃったかもしれないなと。
でもそんな意図は全くないんですね、むしろリスペクトしてます。
僕は普段の生活からなんでもそうなんですが、やりたくないと感じたら、そこから先に1ミリも前に進みたくないんです、そういう社会不適合なタイプなんですね( `・ω・´)ノ
だから素直にハイハイと通っていける人や、何かしら違和感を感じながらも、それを自らの成人の糧として喜んで通っていける人に対して、本当にすごいなと思っています。彼らは僕にはないものを持っていて、だからこそ当然尊敬しますよね、人はないものねだりですから。
ここまでよろしいでしょうか?
以上を踏まえて、誤解無く聞いてください。
昨日も言いました、僕はこれまで主流とされてきた青年会活動、例えばあらゆる行事であったり、路傍講演や戸別訪問や神名流しに意味を見いだせないのは事実なんですが、それはあくまでも僕の視点でしかありません。
そういった主流の信仰であっても喜んで通れる人、与えられた場で一生懸命頑張っている人は、本当に素晴らしいと思う。
僕にはない、それこそがあなたの徳分だと思います。
だからもし、昨日の僕の話を聞いて、変にいずんでしまった人がいたとしたら、本当にごめんなさい。
僕は僕で自分なりにできる信仰やおたすけをしていけたらと思うし、あなたはあなたの信じる道を自信をもって突き進んでほしいなと思います。
どうしても、講師という立場でしゃべると…
講師が喋っていることが正解っぽくなってしまうんですよね、構造的に。
でも、どんな場であれ講師の言ってることが正解とは限りません、所詮人間ですから。
昨日も冒頭で言いました。僕の話を聞いて正解だと思わないで欲しい。むしろ「あなたの中にある心の声に気づく機会にしてほしい」と。
甲本ヒロトはこう言います。
ロックンロールは吐き出した瞬間と受け取る瞬間があって、受け取った瞬間に完成するものだとは思ってる。僕の出すロックンロールは僕だけでは未完成なんだよ。聴く人がいてその人の心の奥の中で完成する
僕もそう思います。(僕はヒロトの大ファンなので彼の言葉はもはや教義と化しています。笑)
だから僕の話を聞いて、確かにそうだなと思った方はそれがあなたにとっての正解かもしれないし、逆にイラッとした方はそれがあなたにとっての正解なのかもしれません。
ちょっとそれだけ気になっていたので、ここで補足させてもらいました。
一応このブログでもそうなんですが、僕とは考え方が違っていても、頑張っている人をディスりたくないなと常々思っています。
唯一ディスるのはあなた教だけ。笑
さすがに天理教の仮面をかぶって、新しい宗教の教祖になってしまう人はダメでしょ( `・ω・´)ノ
本質から変わってきちゃいますからね。
でも本質さえ外さなければ、あとは方法論の問題ですから、いろんな信仰スタイルがあっていいと思います。
自然界でも多様性によって種が繁栄・存続するわけですから、多様性は歓迎すべきことだと信じています。
以上、昨日の補足をちょっとだけさせてもらったの巻でした。
今日も成人しましょう( `・ω・´)ノ