こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。
この前の土日、淡路島にキャンプに行きました。
今回はその時に友だちから聞いた「お供」について考えさせられるエピソードをお話しようと思います( `・ω・´)ノ
教会のものは誰のもの??教会長が勝手に使っていいの??
今回は4家族で行ってきたんですけど、元々大学時代から野球を一緒にやってた友達と行ってきたので、まぁほんとに何も気を使わずにすごく楽しめました。
で、キャンプに行くと、たっぷり時間があるんですよね。本当に何もすることないので、普段はじっくりしゃべらないようなことをしゃべるわけです。
で、そん時にある友達、、ここでは仮にAくんとしておきましょう。
Aくんがこの前のお盆に里帰りをしたときに、奥さんとの何気ないやりとりのことを話してくれました。
彼の奥さんはもともと天理教じゃないんですね。
一方、Aくんは家が教会で小さいころから信仰がある。
で、この前のお盆にAくんの実家の教会に里帰りをしたとき、たまたま台湾からの信者さんが教会に来ていた。
で、晩ご飯を一緒に食べる機会があったそうです。
その時に台湾からの信者さんが、とあるお皿を見て、
「すごくきれいですね!」
と言った。
それを聞いた会長さん、つまりAくんの父親が、
「そっか!それならそのお皿をあげるよ!ユー持って帰りな!」
と言って、お皿を台湾からの信者さんにその場でプレゼントしました。
それを見てた奥さんが、あとからAくんに聞いたそうなんです。
「教会のものはすべて信者さんからのお供えで買ってるのに、教会の人だからって自由にお皿をあげていいの?」
って。
奥さんからしたら素朴な疑問だったかもしれませんが、Aくんからしたら「お供えなのに教会長だからって自由に使っていいのか?」という感じで聞こえたそうなんですよね。
でも、その質問をされた時にAくんはうまく答えられなかったそうです。
皆さんだったらこれを聞いてどう思われますか?
いろんな意見があると思います。
Aくんの意見「お供えしたんだからとやかく言わなくて良い。でも・・・」
ちなみに、Aくんは「そもそもお供えってのは神様へのお供えだから、お供えした後の使い道について、お供えした者がとやかく言う必要はない」っていう意見に賛成。
だけど、それは自分が信仰があるからそう思えるのであって、奥さんがそう思うかは別、、という感じの意見でした。
バランス感覚いいですね。
僕もこれは確かにそうだなと思います。お供えしたあとの使い道についてとやかく言う必要ないですよね。
とか言いながら、「もっとリソースを上手に使えるだろ」とか「自分でやった方が上手にリソースを使えて社会に与える価値も大きくなる」とか超自己中を発揮して自分で色々やってるので、ぼくが言う資格は一切ありません( `・ω・´)ノ笑
そのあたりの自分に都合が悪いところはこそっと一回棚に上げて・・・
僕はこう思います。
ひさまつくんの意見「人を喜ばすために使っているのだからOK」
天理教の信仰って突き詰めていってシンプルにすると、人を喜ばせるっていう1点に集約されると思ってるんですね。その先に陽気ぐらしがあると思うわけです。
てか、明治21年以前、教会制度がスタートする前の時代ってそんな内容しか説かれてないし、教会順序がどうこうとか、理の親がどうこうとか、そんな「あsdgぼあsあべしー・・・(※自重)」みたいな教えは説かれてないし。
人を喜ばせる、人に満足を与える、それだけなんですよね、天理教って。
で、いつも言うけど、教会はその理想を実現するためのツールでしかないと思ってるわけです。そしてそのツールを管理、維持運営してるのが教会家族。
今回のケースだと、人を喜ばすためにお皿を上げるということしてるわけじゃないですか?
実際に受け取った人は
「ああ素敵なお皿がもらえて嬉しいな」
と思ってくれてるはず。
これは教会のリソースを使って人を喜ばせてるので何も問題ない。
むしろ、天理教の理想を実現するために、正しい使い方をしてるって思うぐらい。
表面上は、教会長が好き勝手やってるように映るかもしれないけど、そこに「人を喜ばせる」という思いがあるかどうか、これが正しい判断かどうかの分かれ目ではないでしょうか。
ぼくはそんなふうに思います。
あなたはどう思いますか???
今日も成人しましょう!( `・ω・´)ノ