こんにちは。ダメダメようぼくのひさまつです。
今日もまたお供え絡みの話です。どんだけお供え好きなんでしょうね。笑
この調子だといきなり幸せになれる黄色いハンカチを販売し始めるかもしれません。やばいすね、それはさすがにやばい。
ほんと悪徳ブログですんで、みなさん気をつけてくださいね( `・ω・´)ノ
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さておき、Facebookページの方にこんなコメントをもらいました。
こちらです。
どうもやっぱり信者さんの御供えを自分のことに使うことに抵抗あるなぁ。
刷り込まれてきたのもあるやろし、実際に御供えされたお金の使い道を見てきて、それに対して反発する気持ちもあるやろし。でもよく考えたら教会に御供えしてくれてるお金に手をつけるのには抵抗あるけど、お葬式やら雅楽やら、外に出て何かさせてもらって頂いたお金に手をつけるのは抵抗あんまし無いわ。
教会子弟の先輩から貰ったんですが、それこそ僕自身も教会子弟なので、なんとなく後ろめたい気持ち、ものすごくよくわかります。
論点を整理すると、
- 信者さんのお供えを自分のことに使うのは抵抗がある
- これまでの刷り込み、固定観念からそう思うのかもしれない
- 実際に使われているお金の使い道を見てそれに対する反発がある
- でもよく考えたら自分で稼いできたお金を自由に使うのには抵抗がない
こんな感じですかね。
お供えの使い道をどう考え受け止めるか。教会子弟としては、このあたりは避けては通れない問いだったりします。競馬好きのろくでもないわたしでも一応きちんと考えてます。
いきましょう。
信者さんのお供えを自分のことに使うのは抵抗がある
これは正直めっちゃわかりますね。自分のために使うっていうのは、私利私欲を満たすために使うみたいな、いやらしさを含んでてちょっとネガティブイメージありますよね。
この意味で捉えたとき、自分のために信者さんからのお供えを使うっていうのはものすごい抵抗あります。
でもね、これについてもよく考える必要があると思うんですね。
ぼくなりに考えて答えは出てるんですが、
- 何も生みださない消費は×
- 生きる喜びを感じられる消費は◯
- 将来人喜ばすための自己投資は◎
と思います。下で説明しますね。
1.何も生みださない消費は×
何も生みださない消費っていうのは、後から何かを生み出すのにつながらないお金の使い方。
それに使ってもなんか楽しくない。人も喜ばせられない、しかも自分もあまり喜べない、、そんなお金の使い方。それはよろしくないなと思うわけです。
これは説明不要ですよね。こんな使い方はダメ。
2.生きる喜びを感じられる消費は○
一方で生きる喜びを感じられるような消費ってのは、自分がそれをしてて「あー楽しいな」って思うようなお金の使い方。
たとえば、僕だったら野球が好きなんですけど、野球やってるときは「あー楽しいな!」って思うわけです。
野球を観に行ってる時もそうだし、野球の道具をスポーツショップとかに買いに行く時もそうです。楽しい!
「生きててよかった!やべー今日も楽しいわ!最高や!」
そう思えるようなお金の使い方は◯。
僕も1人の人間です。
僕の人生を最高に楽しむ義務があると思う。これはこの世に生まれてきた以上、ある意味義務だと思っています。
人のために役に立つことが楽しかったらそれは素晴らしいことだと思うし、人のために役に立たなくても楽しかったらそれでいいと思う。何をしてても、とにかく自分が楽しい!と喜べるのって大事。
自分が喜べないのに人を喜ばせることなんてできない
もう一つ、別の観点から言うと、人生楽しくないと何かを生産して人に喜んでもらう気持ちになれない気がするんです。
自分が楽しめてるからこそ、人を喜ばせることに関心が向く。自分が喜べてないのに人を喜ばせることって無理なんじゃないかな。
人を喜ばせるための最低条件として、自分の精神状態を楽しい状態にキープするのって大事なんじゃないかと。
ある意味、これは消費ではなく、拡大再生産だと思うんですね。
人のために何かを再生産できる状態に自分を保つ。そのための消費は○。
3.将来人喜ばすための自己投資は◎
僕はこれがベストだと思っています。
これはどんな使い方かっていうと、自分が将来人を喜ばすための能力やスキルを身につけて、バンバン社会に貢献しまくるための準備としての使い方です。
シンプルに言うと勉強ですよね。
自分が成長すれば人のために自分の能力を使って貢献できると思うんです。
ほんとにどんなことでもいい。
自分がこれだと思うことで、どんどん自分を成長させる。そしたらそのうち人を喜ばせるような能力が身についていく。
自己投資にかけたコストよりも、社会に出て人を喜ばせるための価値の方が大きくなったらそれでいいわけじゃないですか。
例えば、うちの奥さんはパン教室に通ってパン作りを習ってたんですが、そこに仮に10万円の授業料を払ってたとする
そうやって身につけたスキルを使って、一生かけて10万円以上の喜びを人に与えればいい。なかなか人の喜びはお金に置き換えるのは難しいかもしれないけど、とにかく喜んでもらったら10万円が生きる。
それが生きたお金の使い方だと思う。
自己投資すれば投資したものの何倍もの喜びを人に与えられる。
素敵だと思いませんか?( `・ω・´)ノ
いただいた恩以上のものを人生全体を使ってアウトプットしたい
信者さんのお供えで大きくなってるのは事実。だからこそ、その分それ以上の価値を人生をかけて人様に提供したい。
僕が今こうやって存在してるのも、いろんな人のおかげがあっての今だと思うんですよね。
これは信者さんに限らず、これまで出会った人生の先輩だったり、友達だったりまた後輩だったり。
そうやっていろんな人のおかげをもって今ここに自分が存在している。
ある意味、今の自分というのは、これまでのいろんな人の思いを形にしたものだと思うんです。
いろんな人から物心両面、いろんな投資をしてもらって今の自分がある。
ありがたい。
だからこそ、人を喜ばせまくる人生を送りたい。
それがこれまで自分に投資してもらった人たちへの最大の恩返しになるんじゃないか。
それに、そうやって人を喜ばせることが天理教の信仰だと思うので、きっと神さまにも喜んでいただけるんじゃないだろうか。
こんなふうに思うのです。
自分のために使うってのは言葉面だけ捉えるとなんとなくネガティブなイメージがあるけど、結局これも使い方一つなんじゃないでしょうか。
最終的に「人を喜ばせる」ことにつながっているかどうか。
今のところ、これがぼくの判断基準になっています。
あなたはどう思いますか??
今日も成人しましょー!( `・ω・´)ノ