教祖のひながたを辿るとは、教祖の○○○をパクることだ!

こんにちは。ダメダメようぼくのひさまつです。

 

今ポテチを1袋食って猛烈に気持ち悪いです。胃もたれMAXです。とっとと行きましょう。

 

最近ある本を読んでしっくりきたことがあります。

 

 

ある本というのはこの本のことなんですが、簡単に内容を紹介しますね。

この本のテーマは「教わること」でして、人が何かを教わるときに、どのように教われば最も効率的かといったことがテーマの内容です。

要点としては、

  • 教わる力とは自分の判断軸を作ることであり、最終的には自分の判断軸を持って取捨選択をできるようになることだ、と。
  • そのために、すでにそのゴールを知っている他人の判断軸を借りて利用することが最も近道になる。
  • だってゴールしていない人には、何がゴールをするために正しい判断であり、重要な情報なのかは分からないから。だからゴールした人の判断軸を借りてくるのが一番近道だよ。

と言った内容でした。

面白かったのでよかったから、読んでみてください。

 

で、これを読んだとき天理教の信仰も同じだなと思ったのです。

今日はちょっとその辺のところを。

 

 

結局のところ成人はモデリングが一番の近道

結局はモデリングが1番近道なんじゃないかと。真似をすればいいんです。

いわゆる教祖のひながたをたどることです。

教祖は「ひながたの親」であり「月日のやしろ」であり、つまりはゴールを知っているわけです。

教祖のひながたをたどることが結局のところ、心の成人をするために最も効率的で最短距離に行けるのではないでしょうか。

じゃあ何をパクるか?って言うと、判断軸なんですよね。

 

教祖のひながたをたどるとは、教祖のしたことそのものを真似をするのではなく、教祖の判断軸をパクることではないかと思うのです。

教祖がどのように考えどのように行動したのか、その背後にある判断の基準をパクる。

それをして初めて、本当の意味で教祖のひながたをたどることになるんじゃないかと思うんです。

 

ただ表面上の形だけなぞっていると、悟り違うことになりそうな気がします。

野暮ったい例ですが、教祖は官憲の取り締まりにも屈することなく、おつとめの完成を急がれました。

これをただ表面上だけをなぞると、警察を軽視する、警察とバトってオッケー!みたいな理解になるのかなと。

でも、この時の教祖の判断軸はあくまでも天の理が第一、おつとめの完成が第一だというところにあると思うんですよね。

 

教祖のひながたをたどるってのは、ただ表面上教祖の行動を真似をするのではなくて、教祖の判断軸をパクってナンボなんじゃないでしょうか。

 

 

素直は判断軸をパクるための最良の方法

よく天理教では素直なのは神様がお喜びになると言われます。

高井直吉先生の口伝では、

「素直は、正直やで。素直な道具は使いよい。素直は神が好けば人も好く。」

と伝えられています。

 

素直は正直やでってのはよく意味がわかりませんが笑、いずれにしても素直であることは神様からも人からも好かれると言われています。

 

で、この「素直」ってのは、自分の判断軸は横に置いて、人の判断軸を借りてくるってことが本質的な意味なんじゃないかと。

上でも書きましたがゴールしたことのある人しか、何がゴールするために正しい判断なのかどうかわからない。

成人に向かって歩みを進めている我々には何が正しい判断なのかは分からないのです。

結果的に、自分の判断軸で判断することが良い結果になる場合もあると思うけど、そうならない場合も当然ある。運ですよね、運。ちっぽけな自分の判断が正解かどうかなんて運でしかないでしょ。

であれば、一番効率的にゴールに近づくためには、素直にパクればいい。

ゴールしたことのある人の判断軸をパクればいいんです。それが速いですよね、確実に。

 

 

素直が思考停止になってはいけない

ここでちょっと注意したいのは天理教は素直という言葉の意味が一人歩きしてるような気がします。

ゴールしたことのある人の判断軸をパクるために素直であることはいいことだと思うんですけど、ただ理の親と言われる人の意見を素直に聞くという理解は違うんじゃないでしょうか。

理の親というのは一般的に上級教会であったり、自教会の会長さんを指していうことが多いと思うんですが。

 

その人はゴールしているんでしょうか?

 

おそらく誰もできていないと思うんです。

全員ノーだと思うんですよ、現時点では。教祖以外は全員ノー。

 

それなのに、いわゆる理の親といわれる人の言うことを素直に聞くことの、どこに信仰的な意味や妥当性があるんでしょうか?

素直の意味を取り違えてるような気がします。

それはただの思考停止ではないでしょうか。

 

論点整理しますが、素直にハイということ自体を否定してるわけではないんです。

ただ理の親という立場を理由に、その人の言うことをすべてを「ハイ」と肯定するのは思考停止ですよね?って話です。

本来的には教祖の判断軸を素直にパクって、自分の判断軸とすること。

 

これが「素直」という言葉を扱うときに、一番意味のある使い方である気がします。

あなたはどう思いますか?