信仰が楽しくないならハードルを下げよう

こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。

子どもが1歳3ヶ月になりました( `・ω・´)ノ
かなり話せるようになってきて生物から人間に変わってきたと実感しています( `・ω・´)ノ

この子はどんな人になってほしいかなぁ?とか薄ぼんやり考えたりするのですが、そんなことを考えているうちになぜか「使命」とか「自己実現」について考えてました。

今日はちょっとそのあたりのところを。

 

「使命のステージ」と「自己実現のステージ」がある

最近こんな記事をよみました。

 

一部だけ引用しますね。

ただ「好きだからやる」というのは、かなりステージが低いです。

昔はよく私も【好きな事を仕事にしよう】というキャッチコピーを多用していましたが、あれはステージが低い人向けの文です(今後は死んでも使いませんww)

というのも「好きな事を仕事にしたい」というのは、あくまでも【自分の話】でしかなく

「好きな事を通して、人や社会にどんなインパクトを与えたいか?」「どう変えていきたいか?」「どうより良くさせていきたいか?」という視点が抜け落ちてます。

所詮【いかに自己実現するか?】 ってお話なんです。

 

ひさまつ

おぉ、おもしれぇ。

さらにこう続きます。

 

「好きな事を通して、人や社会にどんなインパクトを与えたいか?」「どう変えていきたいか?」「どう社会や関わってくれた人を、より良くさせていきたいか?」という視点が抜け落ちてます。

だから、周りとの循環も起こりませんし、人のお役に立つ意識と乏しいです。

そういう働き方は、幸福度も繁栄度も長い目で見たら低いです。

そういう人たちが次のステージに行くためには【今まで自分が好きでやってきた事を、いかに人のお役に立てるか?】という意識を持つことだと思います。

 

つまり、「自己実現のステージ」「使命のステージ」があると言うわけです。

整理してみると、こんな感じでしょうか。

使命のステージ

・自分が社会や人にどんなインパクトを与えたいか?
・社会をどう変えていきたいか?
・どう関わってくれた人をより良くさせていきたいか?

 

自己実現のステージ

・好きなコトを通して自由に生きていきたい
・いかに自分のスキルや年収を上げるか?
・いかに毎日楽しく生きて行くか?

 

 

楽しいにも2種類ある

この記事を読んでこれまで薄ぼんやりと整理できていなかった「楽しさ」が自分の中でクリアになりました。

こうです。

 

使命のステージにいて、「自分の使命はこれだ!がんばるぞ!」ってあれこれやっているときは、はっきり言ってメンタルはしんどいんすよね。笑

めんどくせーこともいっぱいあるし、やりたくないこともやらないといけない。正直やりたくないことばっかり( `・ω・´)ノ笑

ただ、それを頑張った先にはすごい充実感とか、やりがいとか、何とも言えない晴れ晴れとした気持ちになる。楽しいんです。そこまでいくと楽しい。

 

一方で、自己実現のステージはどうか?

もうただただ楽しいっすよね!!!笑

お酒飲んで友だちとあーだこーだやってるのも楽しいし、家族との時間も楽しいし、テレビ観ててもおもしろいし、とにかく楽しいでしょ?分かりますよね?笑

でも、ふと立ち止まったとき、頭をよぎる何かがある。

「これでええんか?」
「おれは幸せだなぁ。でも、本当にこのままでいいんか?」

というアレです。心のずっと奥の方にくすぶっている何かが顔を覗かせるんです。モヤモヤ感。。。

 

つまり、こういうことです。

使命と自己実現、それぞれのステージにおいて感じる「楽しさ」の種類が違う。

使命のステージではメンタル的にはしんどいことばっかりなんだけど、ふと立ち止まって自分を振り返ると充実感がある。

自己実現のステージではメンタル的には楽しい!けど立ち止まったときにモヤっとすることがある。

こんな違いがあると思うんですね。

 

 

この2つステージを天理教に当て込んでみた

で、この「使命」と「自己実現」のステージという切り口で天理教を捉えてみました。

分かりやすくいうと、こんな感じでしょうか。

 

使命のステージ

「布教をして信者を増やすぞ!教会つくって陽気ぐらし世界の実現に向かうぞ!」

 

自己実現のステージ

「毎日生かされて生きている、今日もありがたいなぁ!」

 

信仰においても2つのステージがあると思うのです。

これはどちらが良いとか悪いとかではないです。現実としてそういう切り口で捉えることができるよね、って話。

 

まずは自己実現のステージで良いと思う

で、これを踏まえてぼくは思うんです。

まずは自己実現のステージで楽しめたらそれでいいんじゃないだろうか、と。

大前提として「使命のステージ」のが高尚なんですよ。だからみんな「使命のステージ」にまで登っていかないといけない気がしてしまう。

なんか「布教してない」とか「教会してない」とかって後ろめたく感じることありませんか?布教してる方が良いことだ、みたいな。極論すれば、布教=信仰みたいな雰囲気感じることあるじゃないですか。

でもね、布教って使命のステージだと思うんです。その使命のステージの手前には「自己実現のステージ」があるんですよね。

そこをすっとばして「やれ布教だ」ってやってても意味ないんじゃないだろうか。まずはその人が「ありがてぇ!」って思わないと始まらないんじゃないだろうか。

そもそも、教祖ご在世当時の先人の先生方でも、最初はふしぎなご守護でたすけられて「あぁ、今日も生かされて生きている!ありがたいなぁ」という思いがまずあって、そこを突き抜けていった先に「よし布教だ!」と使命のステージの突入していったと思う。

後なんです、使命のステージの方が。まずは自己実現のステージがあっていい。そこで楽しめたらそれでいいはずなんです。

 

信仰してても楽しくないなら、ハードルを下げよう。別に高尚な人間でなくてもいいじゃん?

 

信仰してても楽しくないのは、それは使命のステージで天理教を捉えているからかもしれません。

使命のステージはメンタル的にはしんどい。もちろん、その先には充実感ややりがいもある。でもそれは「自己実現」のステージを突破した先にあるものなわけじゃないですか。

でも、いいんです、別に突破しなくても。高尚なステージに登らなくてもいいんですよ。

生かされて生きている喜びを感じて、楽しいなぁでいいじゃないですか。

かしもの・かりものの世界に感謝して生きる。「ありがたいなぁ、毎日楽しいなぁ!」と思って毎日過ごせる人生って、無いものばかりを見る人生よりも絶対に楽しいと思う。

あるものに感謝できたらそれで幸せなんですよね。

使命のステージまでいかなくても、ちょっとした自分にできることで、人に優しくしたり、人を喜ばせたりしてたら充実感も感じられる。

もう十分幸せじゃないですか。

信仰してても楽しくないなぁって思うあなた、堅苦しく考えすぎだよ。

布教とか教会とか無視無視、ほっとけばいい。

かしもの・かりものの世界を満喫したらいいんだよ、まずはあなたが楽しくなろう( `・ω・´)ノ

 

というわけで、ぼくは娘に「かしもの・かりものの世界を満喫できるような人になってほしい」と願うことにしました。そこまで連れていくのが親としての使命でしょうか。がんばろ( `・ω・´)ノ

今日も成人しましょう!