高校の同級生と鶴橋で飲んでて「そういえば」ってなった話

こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。

今日はうちの月次祭なんですが、仕事で参拝できなかったので、かわりに「鶴橋で飲んでた話」をお供えします( `・ω・´)ノ

 

この前、高校の同級生と鶴橋で飲んでまして。

北寮で同じ階だったお下劣フレンズだったので、だいたいいつもずっとしょーもない話ばっかりしてるんですが、今回は珍しく「教勢低下」というシリアスな話になりました。

ぼくらも大人になったようです( `・ω・´)ノ

 

教勢がダウンしてるのは親のせい?

別に今さら騒ぎ立てることでもないんですが、教勢がダウンしてきてますよね。

で、飲んでたら、「これが原因ちゃうか?」「いや、あれが悪いんや!」

みたいに色々湧いて出てきますが、そのひとつにこんなのがありました。

「親が信仰を伝えられていないから」

確かにそうだと思います。

けど、ちがうなと。
合ってるけど、ちがうなと。

 

ひさまつ

そらそーやねんけどさ、おれらはたまたま親が喜んで信仰してくれただけで、これはマジラッキーでしかない。

ひさまつ

おれだって別の家に生まれてたら、信仰してるかどうか分からんで。

ひさまつ

もしおれが×××××《※バキューン!パオ〜ン》みたいな教会に生まれてたら、おれ信仰してる自信ないわ( `・ω・´)ノ

 

マジでこう思うんですよ。

ぼくが今信仰しているのはたまたまって。親やじいちゃんばあちゃんが喜んで信仰をしている家庭に生まれたから。これはくじ引きと同じで、たまたま当たりくじを引いただけ。

あぁ、ほんとありがたいなって。

当たりを引いてなかったら、少なくとも本科行って勉強しようとか、このブログ開設したりとか、そこまでがっつり天理教に関わってないと思います。たぶん距離を置きながらうまいことやってるんだろうなと。笑

 

ぼくも以前は思ってました、親が喜んで信仰してないから信仰が伝わらないんだろうな、って。

親の責任だと。

でも、大人になって(※なってないけど)色んなものが見えるようになってきて(※なってないけど)ある時気づいた。

喜んで信仰できないのは、人の問題なのか?親にすべて原因があるのか?

違うな、って。

 

環境が人を変える

じゃあ、原因が親にないとしたらどこに原因があるのか?

ぼくは環境だと思うんですよね。

人って普通に生きてたら環境によってある程度は形づくられていくような気がするんです。

ぼくが今信仰してるのも、たまたまそういう環境にあったから。

 

たまたま親が喜んで信仰してて、それが魅力的に映った。

もうほんと、環境のおかげでしかないと思うんですよね。

 

喜んで信仰していない人が悪いんじゃなくて、背後にはそう思わせてしまうような環境があって、その結果として喜んで信仰できなくなった。

原因は人じゃなくて、そこからもう一段後ろにある「環境」なんじゃないでしょうか?

 

本物はいつの時代でも残る

本物は残る。
よく言われますよね。

ぼくは天理教の教えは本物だと思ってるんですよ。だからこれは絶対に残るはずだし、本物なら信仰なんて伝わって当たり前だと思う。

でも、喜んで信仰できない人が現実にいて、それはそういう環境がそこにあるから。

 

じゃあ、喜んで信仰できない人を生みだす環境って、一体どんな環境なんだろう?

 

たどり着いた結論は「本物がニセモノになってるから」

 

見た目は天理教のカタチをしていても、その本質が失われてしまってたらそれはニセモノじゃないですか。

ニセモノを信仰する環境になっているから、信仰が伝わらないんじゃないかと思うのです。

 

で、そのとき何やってんだおれは、と思った。

ぼくはこのまま「親が悪い」とか安易な責任論を人に押しつけて、自分は「ありがたい、たのしー!」って信仰してるだけじゃダメだ。

環境を変えないと。

ぼくはたまたま喜んで信仰できてるサイドの人間なんだから、だれもが喜んで信仰できる環境に変えていかないと!

って。

このブログの最初の記事がコレなんですけど、やんわり伝えてるでしょ、ニセモノの環境を変えようぜ!って。めちゃめちゃ控えめに。笑




教理を勉強して混じりけのない天理教の教えを味わいたい

ぼくがこのブログを始めたのはそういえばそんな思いだったなぁ、と改めて思った鶴橋の夜でした。

 

うん、がんばろ( `・ω・´)ノ