半年ほどふりかえってみる(その3)7月26日以降のこと

こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ

昨日は友人の結婚式にご招待いただき、大変素晴らしい一日となりました。

友人は前日「少し堅苦しい雰囲気かもしれないけど…」と連絡してくれて、僕を心配しておりましたが、歳を重ねて真人間を装うこともできる成人した姿をお見せできて、安心してもらえたと思います( `・ω・´)ノ

いずれにしても、大変おめでたいことで、仲良く豊かな時間を過ごしていただければと心より思っております( `・ω・´)ノ

さて、今日もまた日々の恥ずかしい生き方を全世界に公開して生き恥をさらしてまいります。

パラダイムシフトが起きた7月26日の後。

それ以降については、まずは圧倒的な反省とともに、働き方をどうするか?とか生き方をどうするか?という問いに対して、頭で考えようとしすぎている自分に気付きました。もっと腹で決めるようにしようと。

要するに、もっと直感を大事にしようと。

ただ、その腹で決めるには、体験によって得られる理解がやっぱり大事なので、とにかくあれこれ行動してみようと思ったんです。

で、ひとまずやりたいことを全部書き出してみたところ、出るわ出るわ。

とりあえず「やりたいこと」を100個ぐらい書いてみよう。

そんなに書けるかな?と思っていたのですが、出るわ出るわ、ものの30分ほどで100個すぐ埋まりました。

煩悩の塊であることを再確認いたしました( `・ω・´)ノ

ただ、やっぱりパラダイムシフトが起きたことで、従来なら出てこないようなことも出てきたんですよね。

例えば「ふすまを貼り替える」とか。

面倒くさいし、時間もかかるし、「そんなことやってられん」といって従来なら出てくることもなかったと思うのですが、自然に出てきました。

で、とにかく片っ端から一つずつ手をつけてみようということで、積ん読解消してみたり、久しぶりに友人に連絡してオンライン飲み会してみたり。

細かいところでは、扇風機カバーを買うとか、ステッパーに油を差すとか。

今度、どこどこ行くついでに…ではなくて、今もう服着替えてすぐダイソー行こう。買い物の効率化とかつい考えてしまうんですが、そういう思考と離れてみる実験ですので、今動くということを唯一の行動原理として動くことだけを心がけました。

まぁとにかく片っ端からただやる。

ずっとやりたいけど先送りしていた北海道で牧場巡りをするとか、子どもの頃からお世話になった方に静岡まで会くといったものも、まず計画立ててみるとか、レンタカー借りてみるとか小さく一つ動かしてみる。とにかく今この瞬間にただやる。

そうしてこれまでやってこなかったことも、やってきたことも、後回しにしていたことも、一つずつ優先順位をつけずに、その瞬間に実際に行動に移していきました。

また、その瞬間瞬間を最大限味わえるように、今に集中しようと心がけました。

その経験ひとつひとつを味わおうとする。

やってることはたいしたことじゃありません。

そもそも、いつまでに何をやる、何かを得る、何を成し遂げるとか、そのような目的のある活動からいったん離れて、自分の直感で「気持ちの針が向いたほう」にただ行ってみることに意味があるんだ、と。

ただ、やってみる。

スマホを極力手放す。

で、その瞬間を五感で感じる。

これ、かなり難しいんですよ、僕みたいな効率化至上主義みたいな生き方をしてきた人間からすると。

自然にマルチタスク的プロトコルが脳内で実行され始めるので、「いかんいかん」という繰り返し。

友人から「効率化の権化」と揶揄されていた人間からすると、ちょっとした苦行なんですよね。笑

そんな具合に、特に目的も無く、心に浮かんだことを片っ端からただやってみる。

そうして過ごすうちに、何かしから体験的に自分の中で見えてくるものがあって、結果的に最初挙げた100個のうちでも「別にいいや」と思えるものの出てくる。そのときは直感にしたがってその場で捨てる。

こんな具合にですね、ただ「やってみる」だけ。

以上。

みたいな日々を数ヶ月ほど続けてまいりました。

新たな気づき、新たな世界の見え方

そうこうしているうちに、やっぱり自分自身に対しても新しい気づきが生まれるし、世界の見え方も違ってくる。

いろんなコトが腹落ちしてくるんですね。

気づいたら「あれ?なんか感覚が変わってるな」みたいなのもあれば、自分で「これは違うんだな」と自覚的に気づく瞬間もあれば。

以前は刺さっていたであろうメッセージも刺さらなくなっていたり、一方で見向きもしなかったものがブッ刺さるようになったり。

例えば、登山とか。笑

家族を駅まで迎えにいく車内で、ナビでテレビがついていて、NHKの「日本百名山」が流れていたんですね。

そのときは「白馬岳」に登る回だったのですが、まぁ稜線からみえる風景が美しい。

以前なら「登山みたいな非効率なこと絶対やりたくねぇ。ヘリで頂上連れてってもらってビール飲みたいわ( `・ω・´)ノ」

ぐらいの感覚でしたが、その時は違いました。

「あ、おれ来年ここ登ろ」

と、直感的に湧いてくる。

駅で妻と子どもが車に乗るなり、

「おれ来年ここ登るわ( `・ω・´)ノ」

妻「・・・・・(*꒪⌓꒪)」

みたいな。

家族からすると、急にふすまを張り替え始めるし、「静岡行くで」とか言い始めるし、しまいには北アルプスに登るとか言い出すわ、ついに壊れたか、と。

もともと壊れてたのに、一周回ってまた壊れたかと。

半周にしとけ、と。

そんな日々を送りながら、自分自身の生き方を、体験的を通じてつかみ取ろうとする日々をして今に至っております。

気づきはたくさんあったので、おいおい備忘録としても書き残しておこうと思うのですが…

一個だけ今書いときます

まぁなんといいましょうか、誰でもこういうタイミングってあると思うんです、本来。

自分はどう生きるべきか?と、自分と向き合うタイミングですね。

でも、当事者からすると、なんかダメなことをしているような気分になるんですよね。

「自分はダメなことをしているんじゃ…」

「もっとちゃんとしなくっちゃ…」

みたいな言葉が脳内に湧いてくると思います。

そのせいで焦って結論を急いで、なんか腹落ちしないなぁ…みたいな。

別に普通とかどうでもいいじゃん、と常に子どもに言っている僕でさえ、そういう場面があります。

これはもう仕方が無いことで、「勤勉であること」が普通教育によって行動規範としてインストールされておりますから、なかなか湧かないようにするのは難しい。

でも、そもそも勤勉であることは「良き働き手」として資本主義システムにおいて有用な人的資本を形成するためにしつけられてきた行動規範なわけでして、ここ200年ほどの歴史しかないわけです。

原始社会においては、収穫時期には勤勉に働くけど、そうではない時期はもっとのんびり「干し柿でも食おうかぁ」と、ペースチェンジしながら豊かな時間を送っていたはずです。

数百年前の農民が「もっと成長せねば!」とか「もっとがんばらないと!」と、いつもいつもいつも日々何かに追い立てられながら生きていたとは到底思えません。

何が言いたいかというと、「いつも勤勉であったり、いつも成長目指して頑張り続けなくてもいいよね」ってことです。ゆっくりと自分自身と向き合うタイミングがあってもいい。

むしろ、これだけ変化の激しい社会ですから、本当なら実存的な問いと向き合う機会は増えるはず。でも、自分だけ頑張っていないと、何か自分だけが取り残されそうで、そのままバスに乗り続ける。

いやー、もう降りていいんじゃないかなぁ( `・ω・´)ノ

だって人類史250万年の尺度で考えたら、「もっと○○しよう」は、ほんの一瞬前にできあがった行動規範なわけで、現代が圧倒的に「異常値」じゃないですか。

と、僕は自分を正当化しているわけですが笑、その方がなんか自分では腹落ちするんですよね。

もしかすると、単に「ジコセイトウカ Lv.99」のスキルを発動させているだけかもしれませんし、そのような見方もまた「正解」だと思うんです。

でも、結局のところ、どんな判断基準で自分を評価するのか、そのモノサシを選ぶのは自分ですから( `・ω・´)ノ

話が逸れてきちゃいましたが、もしこれをお読みのあなたが、僕が過去数ヶ月向き合っていたように、実存的な問いと向き合わざるを得ないタイミングを今後いつ迎えるかわかりません。今、もう迎えている方もいるかもしれません。

もしそんなタイミングがやってきたときに、あなたは自分のことを「ダメなことをしてるんじゃ…」と責めなくてもいいと思いますよ、ってメッセージだけここに残しておきたいと思います。

自分がバスから降りずに苦しんでいたからこそ、今ここで書いておこうと思いました。

これはもちろん、いつかまたやってくるかもしれないその時に備えて、自分自身へのメッセージでもあります。

長くなってきたので、いったんこのあたりで今日はおしまい( `・ω・´)ノ