こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ
ようやくYoutubeはじめました。
「今年は動画やろう( `・ω・´)ノ」
と言って新年の決意をしたのは良いものの、スタートは5月。。。
おっそ。
といっても、遅かれ早かれ誰かがやるでしょうし、
どうせ100年もしたら教理勉強の基礎的知識なんてオンラインが当たり前になっているはずで、
社会の変化は個人→企業→行政という順番で起こると言われていますが、
天理教の場合もやはり、
個人→教会→本部(というか教会組織)
という順番で起こるでしょう。
で、その個人がたまたま僕だったというだけで、
「おめぇ、何言ってんだよ」
と、見たことも無い誰かからディスられる役割をぼくが担わせていただけるという大変光栄なことであります( `・ω・´)ノ
あ、そうそう。
教理解釈ってなかなか変わらないなぁと思っているんですが、それは教理解釈がコミュニティと密接に結び付いていて、単にエビデンスを示すだけではダメだからだそうです。
つまり、「あの(信頼できるめっちゃ良い人の)●●さんがそうやって言っているんだから、いくら「おさしづ」に書いてあると言われても、それは違うと思う」
という心理的リアクタンスが発生するということ。
最近、『知ってるつもり 無知の科学』という本を読みまして、
大まかな内容は、
●なぜ人は知っているつもりが発生するのか?
●知っているつもりを防ぐにはどうすればいいか?
がテーマの本です。
で、その本に、
(科学がテーマの章で)
科学に対する意識は、エビデンスに対する合理的評価に基づくものではない。このため客観的情報を提供しても意識はあまり変わらない。科学に対する意識を決定づけるのは、むしろさまざまな社会的、文化的要因であり、だからこそ変化しにくい。(p176)
とありました。
ここで言う「社会的、文化的要因」がまさにコミュニティなわけです。
人の信念を変えるのは難しい。なぜならそれは価値観やアイデンティティと絡みあっており、コミュニティと共有されているからだ。(p185)
とありまして、思いっきり納得しました。
極めつけに、
知識の錯覚を打ち砕くことは人々の好奇心を刺激し、そのトピックについて新たな情報を知りたいと思わせるのではないか、と期待していた。だが実際にはそうではなかった。むしろ自分が間違っていたことがわかると、新たな情報を求めることに消極的になった。(p210)
とまで。
(そらそうですよね、誰もが「自分が間違っている」だなんて思いたくないもの。僕もそうだもん。)
つまりは、
- なるべくエビデンスに基づきながら、
- 教理を解説したり、情報発信をしたところで、
- 人の教理解釈はそう簡単には変わらないよ。
- だって、教理解釈はコミュニティと密接に結び付いているんだもの。
ってわけです。
なんとなく肌感覚として分かっていたのですが、いざこうした研究の成果を目の当たりにすると、
正直ちょっとがっかりしますね。笑
とはいえ、無理ゲーだからこそ面白いというか、工夫のしがいがあるというか、まぁ楽しんで情報発信していけたらいいかなぁと思います。
そう考えたら、大した問題じゃないですね。
それよりも重大な問題はいくら情報発信をしたところで、
自分自身の心づかいは一向に改善している気配が感じられないというところです( `・ω・´)ノ
これこそ無理ゲーだわ。
ま、がんばろう( `・ω・´)ノ
今日も成人しましょう!