「寛容のパラドックス」がジレンマを解消してくれた話

こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ

先日、特急電車に乗る機会があり、その間に自己反省の時間を持つことができました。

その際、Twitterで信仰についてつぶやいてみたんです。その中で、「なぜ自分は組織に対して不快感を感じるのか」を深掘りして考えてみたんです。

そこで浮かんだ結論は、信仰を本来楽しむべきなのに楽しめなくしている原因の一つが組織、もしくはその組織に働く力学、または勘違いしている教会長などの間違った言説にあるんじゃないかということでした。

その結果、信仰が楽しめなくなっている現実があると思っていて、このブログを始めた大きな動機の一つもそこにありました。

このブログは2015年に始めてから、早8年。その間に教内の雰囲気も大きく変わってきました。当時はたいへん高慢で申し訳ないのですが、みんななんで教内の信仰のあり方について疑問を感じないのかな?と思っていました。

一方で、信仰に対する不快感や疑問を感じている人がいて、そういう人たちが信仰から離れてしまったり、さらに悪い状況に陥ってしまったりということを見てきました。明らかに焦りもありました。彼らに届く言葉があればいいなと思っていました。

「ああ、いろんな信仰のあり方があっていいんだな」という別の信仰スタイルを僕なりに提示したいなというのも、このブログを始める大きな動機となりました。

一方で、「信仰のあり方はどんなスタイルでもいい」と言いつつ、実はジレンマも感じていたんです。

信仰を強制したり、理の親の言葉に従うことが信仰だといった信仰のあり方に対しては「ほんと嫌いだなー」と思っていました。そんなのが信仰じゃないだろ、と。「どこをどう読んだら、そういう教理に解釈できるんだ?」と。

どんなスタイルでいいといいつつ、到底自分の中で許容できない信仰スタイルがあることに対して、ずっとジレンマを感じていたんですよね。

「寛容のパラドックス」がジレンマを解消してくれた

でも、やっと答えが出ました。「寛容のパラドックス」という言葉を知っていますか?

簡単に言うと、「寛容な社会を作るためには、不寛容な思想や文化に対しては不寛容でなければならない」というパラドックスです。

不寛容な思想を寛容すると、結果的にその不寛容な思想が社会全体に広がってしまう可能性があるんですよね。

だからこそ、不寛容な思想に対しては不寛容な態度を持つことが、実は寛容な社会を築くためには大事だよ、という考え方ですね。

寛容のパラドックス(Paradox of tolerance)は、哲学者カール・ポパーによって提示された思考実験です。これは、無制限の寛容が、最終的には寛容そのものを破壊する可能性があるというパラドックスを示しています。

具体的には、寛容社会が全ての意見や信念に対して寛容であるならば、その中には寛容自体を否定する、あるいは他の意見や信念を排除しようとする極端な意見や信念も寛容しなければならない。それにより、その極端な意見が広がり、最終的には社会全体が不寛容になってしまう可能性がある。

これに対して、ポパーは、寛容社会が存続するためには、寛容を否定する意見や信念に対しては不寛容であるべきだと主張しました。つまり、寛容はパラドックス的に、その維持のためにはある程度の制限が必要という考え方です。

ChatGPT

このパラドックスを知ったとき、ジレンマが解消されるきっかけになったんです。

信仰の強制や親の言葉に従うことに対する不寛容な態度を持つことは、このパラドックスを前提におくならば、間違っていないんだなと思ったんですよね。

そんなわけで、今後のブログのあり方についてちょっと方向性が見えたように思います。

ただただ「垂れ流す」だけにしよう、と。

「信仰のスタイルは人それぞれ自由でいいじゃん」といいつつ「理の親信仰ってクソだよね」というジレンマに気を遣ってきたんですけど、気にしなくてもいいんだなと。

自分が「おいしい」と思うものをただ「おいしい」と言う。

「まずい」と思うものをただ「まずい」という。

でも、自分が「おいしい」と思ったものを「まずい」と言う人がいても、それはそれ。

自分が「まずい」と思ったものを「おいしい」という人がいても、それはそれ。

でも、自分が「まずい」と思うものを「これおいしいから、これを食べろ」と言ってくる人に対してはハッキリNOと言う。

自分が「おいしい」と思うものを「これしか食うな」とは言わないし、そんなことを言う人を見かけたら「まぁまぁ、いいじゃないか、人それぞれなんだから」と( `・ω・´)ノ

これでいいのかなと。

ブログ開設当初は「こういう信仰ってどうなの?」というメッセージを、信仰を楽しめていない人に届けたいと思っていましたが、今はもう教内の雰囲気もずいぶん変わってきたように思います。

「このままじゃダメだ」ってみんな気づいてる雰囲気出てきたもんね。

当時は、色んな信仰スタイルを提示するという社会的な意義があったと勝手に思っていますが、今はもう役目を果たしたのではないかと思うわけです。

もっと自由に、気楽に、発信しようかなって。

なんとなくですが、勝手に背負い込んでいた重荷を下ろせたような気がします( `・ω・´)ノ

そんなわけで、これからただ自分がおいしいと思うものを垂れ流し、まずいと思うものを垂れ流していくスタイルでゆるくやっていけたらいいなーと思った次第でした( `・ω・´)ノ

今日も成人しましょう!