こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。
お久しぶりです( `・ω・´)ノ
しばらく更新をやめてたんですが、またボチボチ発信していこうと思っております。
いやぁ、この1年は「選択と集中」というできる男がよく使うかっこいいヤツをやろうと思って、「あれもこれも」というブログ名なのにも関わらず、あれもこれもやるのをやめておりました。
おかげでできる男になれたかと思ったんですが、成長しすぎたあまり一周回ってもとのダメダメようぼくに戻ってきちゃった。
ただいま( `・ω・´)ノ
さておき、なんかこの1年ってけっこうお道全体としても変化があったような気がします。
なんとなくですがアクティブになったような。
ぼくの周りだけでしょうか?
発信する人、行動する人が増えたよね
このブログを始めたばかりの頃は周りを見渡しても誰もブログで発信する人いなかったけど、
最近はあの人からこの人まで、みんな何かしらの媒体で発信してますよね。
ブログだけじゃなくて、ラジオやってたりとか。
いいよね、この流れ。
この記事でも書いたけど、情報革命によって「個」と「個」のつながりが活発になって、それによって社会や時代の変化が早くなるよ、と。
いま、まさにそんな感じですよね。
こうした動きが出てきたのは、社会全体の大きな流れの中で起こってきていることなんですよね。
だからまぁこの流れは「止めようと思っても止められない」んですね。
ぼくがこのブログを始めたとき、ある仲の良い友達から「マジで気をつけたほうがいいで。そういう動きめっちゃ目つけられるから。」ってアドバイスをもらったことがありました。
確かにそうかもしれません。
でもね、ひいた視点から捉えると「僕がやらなくても、遅かれ速かれ誰かがすぐにやるよ」って思ってたんです。
人間生活はテクノロジーとともに進歩や変化してきたので、そういう大きな流れには逆らえないわけです。
となると、今後さらに「個」が発信する流れは加速していく。
しかーーーーし。
そんな流れの中で、ちょっと気がかりな部分があるんです。
それは、
「あなた教」を大量生産する可能性を秘めているんじゃないか???
てこと。
この記事でも書いたんですが、「自分が見えている世界」なんてほんのこれっぽちで、実は「よく知ってる」なんて思ってても、所詮人間は限られた情報の中で判断しているわけです。
どうしても人間は認知バイアスが生じるから。
分かったと思っても、それはどこまでいっても「解釈」に過ぎない。
まずは自分の「知」に対する自覚。
無知の知が最初にこないといけないし、どこまでいっても「知的謙遜」の態度が大事だと思うんですよね。
まぁでも、そんな態度をもってして、色んな文献やら研究やら情報を整理していくと、そこから「誰が見ても確かにそうだよね」って言えるような原石が出てくる。
その原石が教えの一番ピュアな部分だと思うんですね。
解釈を省いて省いて省きまくるぞ!という態度をもって、膨大な情報にあたっていくことで、ようやくほんのわずかな原石を発見できる。
いや、発見した気になれる。
それさえも「本当にこれは原石なのか?」と疑うぐらいでちょうどいい。
千利休の「一輪の朝顔」の話を知ってますか?
千利休は引き算の美学を持っていました。
こちらのエピソードを読んでみてください。
「群生する朝顔よりも、たった一輪の朝顔の方が美しさが伝わる」というエピソードがあります。
「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と千利休から使いをもらった秀吉が、「満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう」と思い、出かけると、庭の朝顔は全て切り落とされていた。
がっかりとした秀吉が茶室に入ると、一本の光の筋が差し込むその先に一輪だけ朝顔が生けてあり、千利休が「一輪であるが故のこの美しさ。庭のものは全て摘んでおきました。」と。
秀吉は朝顔の美しさに驚き、千利休の美学に脱帽したという。
引用元:http://sadou.info/kiso/rikyuu/
教えの原石もこんなイメージ。
「群生する朝顔」に本物があるわけではなくて、その朝顔をかきわけた先に、ほんの少しだけ垣間見えるんです、原石が。
大量の文献や研究に触れて、初めてほんの少しだけ見えてくるんです、原石が。
そして、それさえも疑う態度が必要だよね、ってことです。
でも、そういう態度なしに、
ついアクティブなことを単に「良いこと」として、
「とにかく行動が大事だ!」
「行動すれば何か見えてくるはずだ!」
「とにかくなんか面白そうなことやってみよう!」
ってのは違うんじゃないかと。
行動したことによって見えてくるのは「あなたの解釈」です、と言いたい( `・ω・´)ノ
教祖(きょうそ)になりたいならいいけど、そうじゃないでしょ?
あの、解釈自体は悪いことじゃないんですよ?
その人自身が人生を豊かに歩んでいくために導き出した「成功法則」みたいなものですから、それはそれでいい。
でも、それはあくまでもその人自身において言えること、サンプル数はたったの「1」って前提を忘れてはいけない。
個人的な体験とか、自分の悟りとして話すならいいと思うんですけど、天理教の教えとは「これじゃぁぁ、どやぁ!!」みたいにして、さも天理教の教えを説いちゃダメだよね、ってことです、僕が言いたいのは。
たまにこういう記事を書いて、さも「俺は分かってる」風なヤツがいるので、本当に気をつけてくださいね。
※犯人はコイツです
というわけで、お道全体としてアクティブになってきてる雰囲気はあるけれども、このままの流れでいくと「あなた教」が横行してしまわないか心配。
アクティブになった今もなお変わらず僕自身の問題意識としては、
- もっと教理を勉強しよう
- 知的に謙虚な態度でね!
ってところが一貫してあるわけです。
と、ブーメランな問題提起をしたところで・・・
ただ、「もっと教理を勉強しよう、知的に謙虚な態度でね!」って言われたところで、
「どうやってやればいいか分からねーよ」
ってなりませんか?( `・ω・´)ノ
しかし、、、実はあるんです。
ただあまり広く一般に親しみが無いだけで、我々にはこれまで数十年にわたる「天理教学」の成果やノウハウがあります。
知的に謙虚な態度で教えを究めてきた、先人の成果が。
日々、Youtubeで「中央競馬総集編2018」や「香川真司ドルト時代のスーパーゴール集」なる動画を見ている僕のような凡愚を遙かに凌駕する知性を持った先人たちの成果が。
その「巨人の肩」には乗っておいた方が、どう考えても良い。
しかーーーし。
「それさえもハードルが高いんじゃ。」
「こっちは巨人の肩に乗ることさえ難しいんじゃ。」
という声が聞こえてくるんです、ノブの声で脳内再生されるんです。
でも、ぼくは幸い、勉強や研究がまったく苦にならない。
むしろ毎日、「原典」を読み解いたり、『天理教校論叢』を読みふけったり、中山ダート1200mでよく走る血統の源流を探っていたい。
まるでディープラーニングによってただひたすらに膨大な情報をたんたんとインプットし続けていくAIのような心を持っているのです。
そう、学習ヲタクなのです。
というわけで、そんなAIのような心と、AIには圧倒的にかなわない処理能力を兼ね備えた僕はやっぱり、
「自分が勉強した知識を少しかみ砕いて伝える」
という部分に立ち返ってみたいと思っているわけです。
ただこれまでとは違う試みとして「動画」にチャレンジしてみたいと思ってまして。
そのあたり今準備中。
3月くらいかなぁ。整ったらやろうと思います。
人に宣言しておかないとやらないので、ここで僕の強固な決意を高らかに宣言しておきます。
今年は動画やります( `・ω・´)ノ(たぶん)
今日も成人しましょう!
追伸
ぼくの個人的な宣言記事に、あなたの貴重な時間を使わせてしまいすみませんでした&
ありがとう( `・ω・´)ノ