こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ
最近、こんな記事を読みました。
参考
オンラインサロンに入って半年以上たったので、コミュニティ設計を考えてみた
ぼくもいくつかオンラインのコミュニティには属しているので、
この記事で言っていることは「あぁ、たしかに」と思います。
この記事の概要をざっと説明すると、オンラインコミュニティは
- 崇拝型(〜カリスマによる〇〇劇場〜)
- 交流型(〜碁会所や井戸端会議ネット版〜)
- 研究型(〜目的意識強めの学会やラボ〜)
- 共想型(〜ざっくり不明瞭で概念的なゴール〜)
という4つのタイプに分かれますよ、ってもの。
で、天理教でもオンラインサロンが流行っているというか、いくつかできてきましたよね。
これは時代の流れによる当然の帰結だと思ってまして、それについてとやかく言うつもりはありません。
やりたいようにやればいいですよね、自分の人生ですから( `・ω・´)ノ
ただ、流行ってきたからこそ、ついつい人は新しい動きに過剰な期待を寄せてしまいがちですし、それもどうかと思いまして、そのあたりの考えを一旦整理してみました。
雑めですが。笑
FBページの方で書いたことを、そのままコピペしときます。
以下コピペ
オンラインサロンって既存のコミュニティにあった場所縛りを外しただけで、文化の形成や組織マネジメントといった要素は従来のコミュニティと大して変わらない。
崇拝型のコミュニティが従来の天理教のあり方。
このコミュニティ設計では、変化が速くて価値観が多様化した現代においては、コスパが悪いよねというのがぼくの考え( `・ω・´)ノ
現代の社会の流れでいえば、理想の姿は交流型に近い。というか、自然にそうなるはず。
しかし、交流型は正解がなく、個々人が個々人における個別具体的な正解を出していくようなスタイルが得意。本質的に「教理という正解」があるお道の信仰とは適さない。
この折り合いをどうつけていくか?
これは順序の問題で解決できる。
まずはコミュニティメンバーが普遍的な正解を共有できている状態が必要。その正解とはもちろん教理のことであって、普遍的な正解をまずは共有するのが第一段階。
それができて初めて、個別具体的な課題の検討に入れる。教会は今後どうすべきか?教えを広めるには何をすべきなのか?こうした問いは、文化や場所、時代によって正解が常に変わり続ける。ここで初めて交流型コミュニティの特性が活きる。
現時点でぼくが想像できる未来はせいぜいこの辺までだけど、それを実現するまでに数十年はかかりそう。
となると、やはりまずは普遍的な正解の共有、つまり第一段階にリソースを投下すべきだと感じる。
残された人生がどこまであるか分からないけど、ぼくは残りの時間をそこに突っ込んでいきたい( `・ω・´)ノ
というわけで、オンラインサロンで天理教の問題を解決できるか?問題については、いずれ有効な一手にはなりそうな気がするけど、今はまだ無理っぽいな、って感じ。
とはいえ、黎明期ってそんなもんだから、どんどんやればいいよね( `・ω・´)ノ