こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。
ご無沙汰してます。
最近妙にやる気が湧いてきまして、プレステやスイッチを押し入れにしまいこんで仕事をし始めました。
あれですね、やっぱり人の役に立っている感覚って大事。
ぼくは幸せの条件を「自分を肯定できていること」にあると思っていて、常にそこを大事にしているつもりなのですが、「ありがとう」って言われたときほど自分を肯定できる場面はないなと。
最近なんだか教内も活発に社会との接点を持ち始めて、個人事業主が増えていたり、Youtubeを始めたりとあれこれ”凄そう”な動きをする人が増えてきてますよね。ただ、それはそれでもちろん素晴らしいことなのですが、そのような”凄そう”な動きをしなくても同じように素晴らしいことで、自分を肯定していいと思う。
何も”凄そう”なことをしなくたって、「ありがとう」さえ集めていればきっと自分を肯定できるし、幸せを感じられるんじゃないかなと。
そういうわけで、もっと自分を肯定出来る人が増えたらいいなぁと思う今日この頃です。
前置きが長くなってしまいましたが、本題は全然違いまして。笑
今日は、
天理教はこれからどのようにしていくとイイ感じになるのか?
というふわっとしたテーマを、「組織論」とか「コミュニティ論」といった観点から考えてみたいなと思っています。
私事であれですが、これまで仕事で中学生の学習支援サービスをしていて、これまでの経験から「個人の行動変容」については自分の中では体系化がずいぶん進んできました。
1000人以上のサポートをしてきたし、元々研究気質があるもんですから、そら知見が溜まっていくのは当然ですよね。
ただ、最近になってひとつブレイクスルーがありました。
集団(=組織やコミュニティ)が個人の行動変容に作用する力は思っていたより大きいぞ、と。
「個の時代」といわれて久しいですし、教内においてもこの流れは加速していると思いますが、どこかでまた「集団の力」が見直される時期が来ると思っています。
でもさ、、、
その時にまた、今と同じ組織やコミュニティのあり方ではとてもじゃないけど有効に機能しませんよね。
現行制度はすでに有効性を失いつつあるというか、あるいはもう失っているというか。
いずれにしても制度疲労を起こしていると僕は思っていまして。
そのあたりのひずみがいよいよ溜まってきている感が「おおさこ、マジはんぱないってー」レベルに見ているんですが、あなたはどう見てますか?
そんな現状でも頑張っている友人や知人の姿を見ると、本当に頭が下がりますし、心の底から尊敬しています。
僕みたいに外側から偉そうなこと言ってるだけの人よりも、内部で血を流しながらも奮闘しているあなたは素晴らしい。
ただ、僕にもできることはある。
ひとつ言えるのは、現行の体制を批判しているだけじゃ何も変わらないんですよね( `・ω・´)ノ
だって、「ちがう」と言われてもすぐに変われないのが人間だもの。
仮に僕自身が自分の人生を急に全否定されたとしても、なかなか「ほんとだ、あなたの言う通りだよね」と素直に受け止めるのは難しい。
仮に「天理教はにせものだ、キリスト教に改宗しなさい」と言われたとしても、そんなのできるわけない。もし本当ににせものだったとしても。
歴史を見れば、天動説から地動説が支持されるまで約1世紀もかかりました。
データがいくら揃っていたとしても、なかなか自分を否定することは難しい。
ほら、コロナの専門家見てたらめっちゃ思いません?8割おじさんにしても予測を外しまくっているのに、自分の数理モデルを変えようとしません。他の専門家もそう。人流が変わらないまま第5波が収束したというのに、いまだに人流との相関が唯一の要因だと言って聞かない某教授とか。データというれっきとした事実がでているのに、自分の考えを変えないんです。
なんだか専門家の悪口になってますが。笑
それだけ人間ってのは、自分を否定することは難しいですよね、って話です。
信仰なんてまさに人生をかけて取り組むプロジェクトなわけですし、そう簡単に自分の間違いを認められるものではありませんよね。いくら衰退一途という数字が出ていても、そう簡単には変えられない。
それが人間なんですよね。
僕ももう少し若くて血気盛んだった頃は「これじゃダメだぁぁ!改革だぁぁ!」みたいな感覚があったのですが、というか改革は今も大事だと思っていますが、もうおっさんになってくると「急進的な動きって上手くいかないよね」って思うようになってくるんですよね、焼酎飲みながら。
そうそう、プロテスタントが起こった最初期の歴史を見ると余計にそう思います。
急進的な動きは短期的に成功しても長期的に成功しません。
やべぇ、どんどん話が逸れていく。
そんなわけで、話を元に戻すと、現行のあり方を批判したとて、現行の枠組みの中にどっぷり浸かっている人、特に意思決定権をもったような人には何も刺さらないだろうなと思うわけです。
よっぽど人間ができていない限りそれは無理だし、ダメダメようぼくのぼくには想像もつかない世界です。
僕の知る限りでそれができるのは同級生のごんちゃんだけ。彼はすごい。レベチです。大谷翔平見ている感じ。尊敬を超えて言葉が見つかりません。
やば、また話が逸れた。
僕は現実が1ミリでも前に進む択を採りたい
そんなわけで、批判に終始するのはあまり生産的ではないと思う。
僕は昔の同僚から「効率化という概念に足が生えたサイボーグ」と呼ばれていたぐらいの、非生産的なことに寒気すら感じるサイコパスなので、そんなところに自分の時間をできるだけ使いたくないというスタンスがあります。
批判するなら、新しい選択肢を提示したい。
元々あれもこれもは「今の信仰では続けていける自信が無い人に、こんな信仰スタイルもあっていいんじゃないですかね?」というコンセプトもあってスタートしています。
そんな感じ。
というわけでただ批判するだけじゃなくて組織論としての理想の姿を提示したいし、いずれやってくるであろう「集団の力」への揺り戻しに備えて、ある程度テストを済ませておきたい。
理想的な組織やコミュニティのあり方はどのようなものか?検証を済ませておきたいと思っている。
それが僕にできることかなぁ、と最近思っておりまして、そんなわけでしばらく「組織論」やら「コミュニティ論」について、あれこれ書いていきたいなぁと思っている次第です。
あれ?本題に入るつもりが全然進まない。
続きはまた次回。
長女の幼稚園のお迎えに行ってきます。