こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。
組織について考えるシリーズ第三弾。
本シリーズの大きなテーマは、
天理教をこれからイイ感じにしていくために、組織論の観点からどうしたらいいか考えようぜ
ということなんですが、
1回目は「個の時代って言われて久しいけど、集団であることの可能性って結構あるんじゃね?」という話をしまして、
2回目は集団でものごとを進めるメリットについて挙げてみました。
で、今回は組織って一体何のためにあるのか?について考えてみたいなと。
天理教におけるケーススタディというよりかは、一般論として「組織の存在意義」とか「組織であることの意義」について一旦ここで整理しておこうかなと思っています。
組織って何のためにあるの?
繰り返しになりますが、天理教の組織が何のためにあるのか?という話ではなくて、
一般論として組織って何のために存在してるの?
というテーマを今回は考えます。組織の存在意義ですね。
先にこれが定まらないと「天理教における組織の存在意義」を考えるところまで進めません。
というわけで、まずは広辞苑で「組織」と調べてみると、こんな定義が載ってました。
ある目的を達成するために、分化した役割を持つ個人や下位集団から構成される集団。
広辞苑
なるほど、なるほど( `・ω・´)ノ
さらにネットを検索してみると、「バーナードの定義」と呼ばれるものもありまして、
組織とは、意識的に調整された2人、またはそれ以上の人々の活動や諸力のシステムである。
だそうです。
要するに2人以上で何かしようと頑張ろうとしている人たちって感じでしょうか。
おもしろいなと思ったのは、バーナードは組織を組織たらしめる3つの成立要件を提唱していて、それは
- 共通目的:組織によって実現したいこと
- 協働意思:組織の役に立ちたいという思い
- 意思疎通:円滑なコミュニケーション
の3つだそうです。
こうしてみると、
目的という要素は、組織の存在意義として絶対に外せなさそうですね。
「何のために、どのような目的を達成するために」
という目的が先にあって、はじめて組織が存在できる。
つまりは「目的」と「手段」という枠組みで捉えられそう。
組織とは「手段」なんやで( `・ω・´)ノ
って話ですね。
個人的にもこれはめちゃくちゃスッキリします。
ちょっと油断するとつい悪口になりがちなダメダメようぼくの戯れ言
もともとこのブログを始めたきっかけも、なぜが組織に尽くすことであったり、ヒエラルキーの上位にいる人の助言を素直に受け入れることが信仰だといったような、間違った教理解釈に嫌気がさしていたことが原点だったりします。
手段であるはずの組織が、いつのまにか教理にすりかわっているあたりに危険性とか嫌悪感を感じたからですね。
ヒエラルキーの上位に位置する人からすれば、組織運営を効率的かつ安定的に進めるために、上意下達の実行システムの正確性かつ即時性が高いほど良いに決まっています。
このような組織運営上の要請からすれば、信仰的な意味を組織に持たせることは合理的だと言えます。悪意があってそうしたわけではなく、人間は自分の目的達成のために(表面的には不合理に見えても)合理的な選択をする生き物なのだから、それは当然の帰結なのかもしれません。
しかし、組織運営上の課題を解消できたとしても、結果的に信仰という本来ピュアでそれ以上精錬しようが無い本質的なものに異物を持ち込む行為なわけですから、当然そこにひずみが生じてきます。
本当に彼らの言うことは教祖がおっしゃってることなのか?
という問いが心の中で広がっていくのです。
それは本来「手段」であるものを「目的」にすり替えたことが原因といいましょうか。
いわゆる手段の自己目的化によって、組織は成員から信用を失い、その価値を自らすり減らしていくのです。
気づけば悪口のようになっていますが、これは天理教の組織に限った話では無く、ごくごく一般的な話だとぼくは理解しています。
目的を達成するための組織であるはずなのに、その実行システムを維持強化する過程で、知らず知らずのうちに手段が自己目的化してしまい、結果的にその価値を失っていく、という構造はあるあるです。
すべての組織が例外なくこのジレンマに陥ってしまうもので、違いはそのスピード感と自浄作用の有無だけではないでしょうか。
日本的組織では残念ながら破滅まで突き進んでしまうことの方が多いようですが…。
あれ?少し話が逸れてきたので、元に戻そう。
ここでは何が言いたかったというと、
組織とは「手段」であるという捉え方がしっくりくるよね( `・ω・´)ノ
ってことです。
いわば「組織とはツールである」という定義です。
道具なんですね、道具。
ツールであるならば「効率化」とは無縁でいられない
組織の道具性を確認したところで、ではツールって一体何のためにあるのでしょうか?
もう面倒くさいので調べませんが、
どう考えても「効率化」というキーワードは外せないと思います。
もともと素手で狩猟をしていた我々の祖先は、岩を打ち砕いてそれを棒の先に取り付けて「武器」という道具を生み出しました。
その方が「効率的」だからです。
ハサミという道具を使うのは、手で紙を切るより効率的だからですよね。
紙とペンという道具は、頭で覚えるよりも「保存性」あるいは「拡散性」といった目的を効率化できます。
あらゆる道具が「効率化」とは無縁でいられません。
というか、「効率化」こそが道具の存在意義だといえそうです。
おまけ:効率化という言葉の罠
ここで一旦「効率化」という言葉について、スポットを当てます。
ぼくは「効率化」が大好きで、すがのけんちゃんからは「効率化の権化」とか「効率化が服を着て歩いている」とか、散々な言われようをしていますが、まったくその通りで反論のしようがありません( `・ω・´)ノ
ただ、効率化という言葉は、注意しておかないと無意識のうちに特定の基準をもって解釈されがちなんですね。
何か分かりますか?
資本主義的な価値観に基づいた「生産性」です。
簡単に言えば「少ないコストで、より多く、より早く。」という基準ですね。
これ自体が悪いわけでは決してありません。
でも、目的によっては「少ないコストで、より多く、より早く。」が常に効率的だとは限りません。
例えば、教育はどうでしょうか?
早く結果を出すことが常に正解だとは限りません。人が成長する過程では必ず失敗が必要です。失敗することで人はそこから学びを得て、成長します。
より早く結果だけ出せば良いというのは、教育的な観点で見れば、効率的だと言えるでしょうか。
先日イケアにいくとポスターが貼ってあって、そこには、
Less is more.
と書いてありました。
これも資本主義的な生産性とは逆のベクトルですよね。
ミニマリスト的な価値観を基準に置けば、「生産性が高い」=「効率的」とは言えないわけです。
我々は資本主義的な価値観がベースの社会で生きているので、無意識のうちに「効率的」という言葉を「生産性」という基準で解釈してしまいがちです。
しかし、それは視野の狭い解釈だといえそうです。
「効率的」という言葉は本来、いつだってその背後に「モノサシ」が存在しています。
効率的かどうかは、そのモノサシが決めるのです。
いつだって「少ないコストで、より多く、より早く。」が効率的というわけではないことに注意を払っておきたいですね。
このあたりで紹介したいことは出そろったので、本題に戻ってまとめます
ここまでのところで、
組織とは「手段」である
手段であるならば「目的」が欠かせない
また、
組織とは「道具」である
道具であるならば「効率化」が欠かせない
ここまできたらもう説明するまでもないかもしれませんが、一応まとめておくと、
組織の存在意義とは、
とある「目的」を「効率的に」実現する
ことにある、と言えるのではないでしょうか。
…なんだろう、わざわざあれこれ書いて遠回りしてきましたが、結論はめちゃくちゃ当たり前というか、別におもしろくもなんともないものになってしまった( `・ω・´)ノ笑
こんなのは前提としてサクッと先に進んでしまえば良かったかも…と今ちょっと後悔しています。笑
まぁでも「組織としての天理教の存在意義」について考える上では、先に定めておかないといけないところだったので、ヨシとさせてください。
ひとまず今日はここまで( `・ω・´)ノ
今日も成人しましょう!