こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。
この前、ともだちと教理勉強について話をしていました。
ともだち
ひさまつ
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ひさまつ
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信仰の伝わり方
天理教の信仰の伝わり方はほとんどのケースが「親から子へ」じゃないでしょうか。
わたしは教会に生まれ育ちましたが、小さい頃からじいちゃんやおとうさんから天理教の教えを聞かされて育ってきました。
知らず知らずのあいだに赤い方のおふでさきが読めるようになってたり、鳴物は重ね打ちなんかもマスターしちゃってたり、天理教の教理も勉強したというよりいつのまにか知ってた感じ。
どこの家でもこんな感じじゃないでしょうか。
しかしですね。
こうして親から子へ、脈々と教えが伝えられていくあいだに個人の解釈であったり悟りみたいなものが入ってくる。
コーヒーにたとえてみる
数年前までわたし、コーヒーが飲めませんでした。味覚がおこちゃまなの。最近では毎朝コーヒーを飲むようになったけど、
「コーヒーの味わいなんてものはさっぱり分からん!」
と思ってました。つい最近ほしのコーヒーに行くまでは。
「めっちゃうまい、ナニコレ!!!」
正直びびりました。ちゃいますね、本物のコーヒーは。混じりけのない透きとおった感じ。
はじめて「越乃寒梅」の大吟醸を飲んだときと同じ感動。
・・・ステキだよ。
ここで天理教にはなしをもどします
おやさまが教えてくださったことが混じりけのない教えだとすると、それはそれはすばらしい味わいがあるに違いない。
しかし、おやさまが現身を隠されてから約130年。
長い年月の中で、もともと混じりけのないコーヒーだったものが、そこにミルクが入ったり砂糖を加えたり、しまいにはフレーバーコーヒーに仕上げてしまったり。笑
こうして混じりけのある教えが語られているんじゃないだろうか。
混じりけのある信仰になってはいないだろうか。
松村吉太郎先生の『道の八十年』にはこうあります。
組織せられた教会や眼前のおたすけなどをもって最高の仕事であるが如く考え、もっと根本的な、もっと本質的なこの神霊に対する考えを忘れているが如く観ぜらるるのは、何としても遺憾にたえないところであります。
これは大正15年、第八回青年会総会でのスピーチでのときのもの。
教祖40年祭の翌年です。
さらにもうひとつ。
教祖様のお隠れ後、ようやく四十年あまりにしかならぬ。それが早くも教祖立教の精神を忘れて、ただ教派の宗政面にばかりとらわれたり、安易なその日その日を過ごして、その安易さを親神様のお恵みだと考えていた日ごろが恥じられてならなかった。
松村先生は「ちょっとズレてきてんじゃないの?」と言ってますよね。まだ40年しか経ってなくてもこうなんです。
なんでズレてきたのか?
悪気があったわけではないと思う。当時の人も熱心に信仰されていたにちがいない。教祖の教えを求めてたと思うし。
でも、そこはやっぱり人間がやっている以上、ズレが生まれますよね。
なんでズレるの?と言われても、もうこれはズレていくのは仕方がないとしか言いようがありません。
人間だもの。
で済ませますね。
コーヒーが苦手な人でもおいしく飲めるようにいろんな工夫をすると、もともとの超スーパーウルトラ感動しちゃう味わいが隠れてしまう。天理教もこんな状況になってきたんじゃないかなと思う訳です。
今ある信仰のカタチは、もともとの教祖の教えから全然違うとは言いませんが、混じりけがあると考えるのが自然でしょう。
混じりけのない天理教の教えを味わいたい
味わいたいですね、混じりけのない天理教の教えを。
これまで当たり前だと思ってきた天理教の教理を、どの部分が教祖の教えで、どの部分が個人の解釈が混じったところなのか。
これを分けていきたい。
そのためにはお勉強しかないですね。
お勉強はしんどいですが、シンプルにそれしか方法がないでしょう。
勉強して混じりけのない無糖のコーヒーを味わいましょう。
きっとおいしいよ!
でも結局は微糖になっちゃうことを自覚しとかないと、ヤバイ
いくら無糖のコーヒーを求めて勉強をしてもぼくらは人間です。
絶対に何かしらの解釈が入ってしまう。
そのことを自覚せずに、
「ついに掴んだ・・・。これこそが無糖だ!ついにおれは無糖の教えをつかんだんだー!うぃー!」
とかやってしまうと、これはもう異端ですね。
ヤバすぎます。
いくら無糖のコーヒーを求めていても、かってに混じりけが入ってしまうものです。
人間だもの。どれだけがんばっても絶対に微糖になります。
これだけは自覚しておかないといけません、絶対に。
わたしも肝に銘じながらお勉強していきます。
どこまでいっても尾藤にしかならないという自覚のもと、武藤目指してがんばりましょう。