こんにちは、ひさまつです。
前回は理の親についてこんな記事を書きました。
こんな記事を書いていると、何か天理教に対して不満があるのかと思われそうですが、特にないです。
いや、そんなこともないか。笑
でも、個人的なうらみつらみでこんな記事を書いてるわけではないです。
いわゆる理の親と言われる上級の会長さんはとてもいい人ですし、なんなら一緒に楽しく野球もしてますし。
じゃあなんでこんな記事を書いてんのかと言えば、理の親を立てるといった信仰は、天理教にとってデメリットの方が大きいと思うんですよね。
教えの本質はそんなところにないんだもん。
余計なことにとらわれず、もっと天理教の信仰を楽しめる人が増えたらいいなと思います。
前置きが長くなりましたが、今回は理の親シリーズ第2弾です。
一見すると「順序の理」を説かれているっぽいおさしづを解釈していきます。
順序の理ってどんなんかハッキリさせておこう
順序の理とひとくちにいっても、いろんな意味がありますが、ここでいう順序の理とはいわゆる「教会順序の理」です。
天理教事典(旧版)には次のようにあります。
理の子は理の親に向って、また部内教会は上級教会を通して教会本部へ、尽くし、運ぶ。このような信仰の道筋を欠かすことなく追い、運ぶことを「順序の理を運ぶ」という。
説明しなくてもだいたい実体験の中でイメージできますね。
これを便宜上、3つの要素に分けてみます。
①教会と教会(血縁関係のない人間と人間)に親子関係が成立する
②信仰の古い教会(人)は理の親、新しい教会(人)は理の子
③理の子は理の親を通して、尽くし運ぶことが大切だ!!!
今回は②・③がふわっと香る「おさしづ」です。
見ていきましょう。
順序の理を運ぶことを神様は求められているのか??
前回の記事では、順序の理なんてあるわけないと書いたのですが、困りました。
というのも、「おさしづ」には一見すると順序の理を諭されているっぽいお言葉がけっこうあるんです。毎回1つずつ解釈していきます。
今回はこれです。
二年経てば二年の道、三年経てば三年の道を見えるで。相談合うて、古き者は親と思え。
(明治21年6月30日 京都元斯道会講社の儀に付伺)
「古き者は親と思え。」とあります。
このフレーズだけを見れば(信仰の年限が浅い者は)「信仰の古いものを親と思うように!」と諭されているように見えます。
さらにこのお言葉からは「信仰の古い者を親と思って、尽くすように」といった意味が感じられてしまいます。
最初にこのお言葉を見たとき、
・・・ウソだろ(´・ω・`)
となりました。
この「おさしづ」をていねいに解釈していく
まずは例の「おさしづ」を全文引用します。
明治21年6月30日 京都元斯道会講社の儀に付伺
さあ/\しいかりと何かの処心鎮めて聞いて置かねば分からんで。神一条々々々というものは古きの処の道があるで。天然自然と言う道。二年経てば二年の道、三年経てば三年の道を見えるで。相談合うて、古き者は親と思え。親となれば子は可愛というもの。皆満足をさして治めにゃならん。子供は子供だけの事。腹を立てゝは、親であらせん。親となれば子を可愛との心にならねばならん。子を憎む心では親でない。この理をよく聞き分けて置け。
こうしてみるとお言葉の真意が見えてきます。
「古き者は親と思え」と諭された後の文に注目!
親は子をかわいがって、みんなを満足させていかなければならない、と諭されています。
さらに、
「親となれば子を可愛との心にならねばならん。」
とあります。
つまり、この「おさしづ」は一見すると、信仰の浅い者に対して「信仰の古い者を親と思え!」という意味に聞こえますが、ちがいます。
実は、信仰の古い者に対して諭されているわけです。
信仰の古い者は親のような心で、信仰の新しい者をかわいがって満足させて通るように諭されているのです。
まとめ
一見すると「古いものは親と思え!」と諭されているっぽいんですが、きちんと前後の文脈をふまえて解釈すると真意は違います。
「信仰の古いものは親のような心をもって、皆を満足させて通るように」という意味。
「おさしづ」において人間同士が親子に例えて諭されているものは、実はこの他にもけっこうあるんです。それらの「おさしづ」を読むと、だいたい今回と同じメッセージが込められています。
どうも現在のお道の感覚で言うと「信仰の浅い者は、信仰の古い者を立てろ」的な雰囲気がありますが、「おさしづ」ではそんなこと言われてないんですよね。
そもそも教祖のひながたで「私を立てろ」ってもの、ないもん。
むしろ、子どもかわいい一条で、まさに「親心」をもってお導きくだされたひながたですよね。
よくよく肝に銘じておきたいです!
ほんと耳が痛いです( `・ω・´)ノ
今日も成人しましょう!