おひさしぶりです( `・ω・´)ノ
前回の記事で実行プロセスの概要について書いたので、ここから各論を深掘りしてまいります。
今回は意思決定のあり方について、僕の考える理想をシェアします。
そういえば、この前「なんでこの組織論シリーズをやろうと思ったの?」と聞かれたのですが、「う●こと同じ」と答えました。
気になったら出さずにおれないだけで、誰も読んでいないことなど分かっていても、自分の中で気になったことをそのままにできないのです。
それが僕の強みでもあり、あれもこれもやりたくなって時間不足に陥る弱みでもあります( `・ω・´)ノ
余談はこれぐらいにして、本題へまいりましょう。
手続き的公正による意思決定とは?
これは事前に決められた所定の手続きを踏むことで得られた決定について、それを一旦妥当なものとして実行に移す、というプロセスです。
法律の制定や日本国憲法の改正手続きなども事前にプロセスが決まっていますよね。
そうして決められた決定事項を妥当なものとして前に進める。
こういう意思決定のあり方を言います。
あ、前提をすっとばしていたので、補っておきます。
手続き的公正による意思決定プロセスというとき、僕の想定では、
- 組織メンバーが意思決定に関与する
- ただし、メンバーは最終決定権を持たず、議論の権利のみ
- 最終決定権者はTOPが持つ
- TOPが決定権を持つということは当然責任を引き受けるのもTOP
という想定があります。
こうした想定のもと、手続き的公正による意思決定プロセスがなぜ有効だと思うのか?について続きを書いていきます。
なぜこのような手続き的公正による意思決定が有効だと思うのか?
大きく3つの理由があります。
- 多様性を担保できるから
- メンバーの納得感が得られやすいから
- 正義のぶつかり合いによる停滞を回避できるから
理由①多様性を担保できるから
まず、多様性を担保できるとなぜ良いのか?というと、再三再四このブログでも強調していますが、現代社会はとにかくVUCAなのです。
もう超VUCA過ぎてたったひとりの目だけではそのすべてを捉えられない。
たったひとりで考えたような結論には必ず盲点があります。
だから、多くの目でお互いの盲点を補いながら、有効打を放つ確率を上げることが現代社会においてあるべきプロセスだと思っています。
そもそも、独裁というのはTOPの資質によって組織全体のパフォーマンスが大きく変わりますし、某国を見ていてもそうですが、独裁というのは末期になるととんでもない意思決定ミスを犯してしまったり、現体制を維持するためのバイアスが働くことで、ろくでもない結果を生み出してしまう。
そんなわけで、意思決定プロセスは多様な意見を取り入れられるシステムが良いと思っています。
多様性は武器です。
理由②メンバーの納得感が得られやすいから
二つ目、メンバーの納得感が得られやすいというのは、手続き的公正のど真ん中の効果です。
組織メンバーが意思決定の段階で関与していますし、言いたいことを全部言った上で決められたことに対して、人間は納得感を持ちやすいのです。
これはあくまでも比較論で、トップダウンで決まったことと比較した場合に納得感が得られやすいということです。単にこのプロセスを踏めばだれもが納得できるという話ではないので誤解のないように。
組織メンバーに納得感が生まれていれば、実行段階におけるコミットメントのあり方が変わってきます。
実行段階において、メンバーが主体性をもって取り組むことにつながり、結果としてクオリティに差が生まれることになるでしょう。
組織が動かないのは、というか人が動かないのは納得感がないからです。やる意味がないと思っていることに対して人は頑張れませんし、当然ですが望ましい成果は得られません。
理由③正義のぶつかり合いによる停滞を回避できるから
三つ目、正義のぶつかり合いによる停滞を回避できるという点についてですが、複数メンバーによる意思決定の場面は正義と正義がぶつかりやすいんですね。
独裁者であれば、そのお方の正義がまかり通るので停滞も起きにくいのですが、その場合のデメリットは上に書いたとおり。
ここで想定しているのは、組織メンバーが意思決定に関与している前提でのお話です。つまり意思決定の段階で、議論が交わされることになります。
そこでは当然ですが、各自の正義がぶつかりあいますよね。というか、ぶつけ合わないと良い物は生まれません。
しかし、ただぶつかり合っているだけでは何も前に進まない。
僕はリアリストなのでしょうか、あーだこーだ議論して結論を先送りしているぐらいなら、1ミリでも前に進めた方が良いと思うんです。検討している間に社会が変化して正解そのものが変わる時代なんだし。
そんなわけで、お互いにすべての主張をぶつけ合った上で、最終的には結論を先送りせずに、決定事項を出すことが重要だという立場です。
そんなとき、手続き的公正の実行プロセスであれば、最終的な意思決定を下すことができます。(※あくまでも事前に決められた所定の意思決定手続きにおいて、最終決定権者としてTOPが定められていることが前提)
つまり最終判断をTOPに委ねるわけですが、これは独裁による意思決定プロセスとは明らかに異なります。独裁による偏った質の低い意思決定を回避するとともに、停滞も回避できるというメリットを享受できます。
以上、手続き的公正による意思決定が有効だと考える3つの理由でございました( `・ω・´)ノ
ただしこのプロセスを機能させるには2つの条件がある
ただ、ちょっと注意しないといけないのが、次の2つの条件が成立していないと、うまく機能しないんですよねー。
- 失敗を許容する
- 心理的安全性を担保する
まずは組織メンバーが失敗そのものを許容するという点です。
くり返しますが、VUCA時代は正解そのものがコロコロ変わります。意思決定事項が間違う可能性だって十分にあります。
というか、そもそも100%を目指してはいけない。60%ぐらいの精度で見切り発車しながら、高速でPDCAを回して修正していく方が成果に繋がりやすい時代だと思うわけです。
だからこそ、意思決定そのものが間違うケースも頻発するでしょう。しかしそれは最初から想定内にすべきこと、つまり失敗を許容し、ネガティブに評価しないという前提が必要になります。
失敗を恐れると判断の先送りであったり、質の低い意思決定を自ら導いてしまう要因になります。
もうひとつ、心理的安全性の担保については、これは組織メンバーが自由闊達に議論できる土壌を作っておくという意味です。
「自由に議論する場」を用意しても、結局メンバーがTOPの顔色を伺っているのであれば、それは多くの目ではなくなります。独裁となんら変わりません。
だからこそ、メンバーが自由に議論できる雰囲気、心理的安全性の確保が必要になります。
しかし、歴史的に天理教はTOPを奉る文化的土壌ができあがっているので、これはもっとも苦手とするところでしょう。
これを打破し、心理的安全性を担保できるのは、その組織のTOPしかいないと僕は思っています。つまり、TOPの資質次第で、運ゲーです。
僕らはこの運ゲーを押しつけられている時代にいるわけで、これを解消するには教育システムそのものを見直す必要があると思っていますが、なんだか本題とは逸れてきたのでこの辺にしときます( `・ω・´)ノ
今日も成人しましょう( `・ω・´)ノ