こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです( `・ω・´)ノ
さて、前回の続きです。
今日もまた薄っぺらい人間性を露見させるだけの妄言日記をまき散らしてまいります( `・ω・´)ノ
何の目的もない、強いていえば書いていて楽しいだけの日記になりそうです。
そんなこんなで、7月26日。
所定の場所に車をつけてお待ちしていると、龍光さんがお越しになられました。
本当にありがたい話です。
こうして徳島まで3時間ほどの道のりをご一緒させていただくことになりました。
同行させてもらうことが決まってから、質問したいことをメモしておいたんですね。
そのすべてに丁寧にお答えくださいました。
その数時間で、僕の中で大きなパラダイムシフトが3つ起こることになります。
こうして文字にまとめることで、自分の中にある思念がかなり劣化してしまうことは承知の上で、まとめてみようと思います。
パラダイムシフト1:利他の規模感
僕はこんな質問をしました。
「得度したあとも、ビジネスとして利他的な活動をされることは考えなかったのですか?失礼ながら、龍光さんほどの優秀な方であれば、ビジネスを通じてより多くの人の役に立つことができるのではないか?と浅はかにも思うのですが…」
補足すると、そもそもYoutubeなどで「得度したあとはただ人様のために生きていきたい」と語られているところを目にしていたので、このような質問をしました。
すると、「利他の規模感は考えていない」と。
「ビジネスを通じて利他を…という声は出家した当初からも言われていたが、迷いは無かった。多くの人のために…となると、自分が数字を追いかけてしまうと感じた。また、お釈迦様は一人一人に分かるように説き方を変えた。多くの人に届けたからといって、ひとりひとりの受け止め方が一様になるとは限らない。じっくりひとりひとりと向き合うことに意味がある。」
といった回答。
これに加えてご自身が「何者でもない自分」という深い体得的な理解があるようにも僕は感じましたが、あくまでも僕の主観です。
いやー、こうして文字にするとホントダメですね。全然ニュアンスがうまく伝えられません。笑
今回の記事は日記のようなものですのでご容赦ください。
いずれにしても、衝撃でした。まさにディープインパクトでした。
僕はこれまで、当たり前のように「多くの人の役に立つことは良いことだ」と思っていたんですよね。
どうすればもっと多くの人の役に立つのか?を無意識のうちに考えていました。
今になって思うのは、これは資本主義のロジックに染まっていたんだろうな、と。
資本主義は資本をいかにして拡大再生産し、資本の増殖をを競い合うゲームですが、そこでは
もっと多く、もっと速く
という思考様式が有利に働くんですよね。
これを無条件に「利他」の場面にも適用していたわけです。
でも、それによって、数字によって計測できない領域があることを見逃していたように思います。
数量によって利他を計測することによって、そこにある豊かな世界が視界から消えてしまった。
そのことに気づかずにいたのですが、100億円企業のCEOにもなられたような資本主義のエリートの方が、自らの深い体験的な理解とともに、数の論理から離れた経緯や、心の乗った重みのある言葉を語ってくれたことで、不思議とストンと気づかされました。
アハ体験というのでしょうか。
気づいた瞬間というのは本当に不思議なもので、言葉を失いますね。笑
「言葉を失いました」としか言えませんでした。笑
まぁそんなわけで、ずいぶん劣化したかたちでしか言語化できないのですが、これがひとつめのパラダイムシフトでした。
パラダイムシフト2:体験的理解
「無知の知」
とても好きな言葉であり、自分自身に対して知的に謙虚で、ついおごってしまう自分を抑制してくれるという点で「無知の知」に陥らないようにいつも気を付けていました。
いや、いた”つもり”でした。
無知の知とは、自分が何も知らないこと(無知であること)を知らない(自覚していない)という一種の戒めですね。
大変お恥ずかしいのですが、自分が「無知の知」であることに気づかずに、誰かが「無知の知」に陥っているのを見ては、「自分はああならないように気を付けよう」と見当違いな思い込みをくり返していました。笑
このとき、初めて気づくことができたのは、無知の知を言語的領域だけで考えていたということ。
知識として知っているか?
論理として通っているか?
いわば「インフォメーション」として、無機質な情報として、知識の不足を「無知」と捉えていたように思います。
だから浅はかな僕は、
「いやー、いくら勉強しても知らないことだらけだし、知的に謙虚に、何も知らないということを忘れないようにしよう」
程度に考えていたんですよね。
でも、龍光さんが「なぜお遍路を回られるのか?」といった話を聞いて、自分が大ブーメランを食らっていることに気づいたんです。
それは、体験的な理解がある、ということです。
なぜ今回お遍路を思い立ったのか?という質問に対して、このように答えられました。
「お遍路は八十八箇所のお寺を回ることで結願といって願いが叶うとされていますが、そこにこだわりは全くない。四十日間の日程の中で、回れるところだけを回らせて貰えたらいいし、その中でご縁があった方に何かお役に立てることがあれば足を運びたい。
今はお遍路は車でも回れるし、電車に乗っても回れるが、それでも歩いて回ることに意味がある。効率として明らかに車よりも悪いが、その体験から得られる情報量としては多くなる。いろんなご縁や出会いなども含めて。
このような体験によって得られる理解がある。人間はすぐにラベルをつけて自分を納得させてしまうが、結果的にそれは真の意味で分かったことにはならないのではないか。だから体験による理解を重視している。そのためにお遍路を歩いて回る。」
うまく伝えられませんが、このような趣旨のお話でした。
やっぱり頭をぶん殴られたような気分で、言葉を失いました。笑
「完全に自分が無知の知になっていたことに気づきました…」と放心状態でつぶやくのが精一杯でした。笑
「古来より修行があるのは、書物などを通じて得られる知的理解ではない、体験的な理解が得られるからなんでしょうが、でもこの体験的な理解は言語化することができない。言語化できない領域を言語化して伝えようとするのは難しいんでしょうねぇ。」
と、優しく引き取ってくださいました。笑
後からふり返って思ったのは、甲本ヒロトもおなじようなことを言っていたなぁと。
雑誌のインタビューで、
ロックンロールはどこが素晴らしいのか?
みたいな質問をよく聞かれているんですが、
「食べてみれば分かるよ。食べてみておいしいかおいしくないかだけなんだよ。なんでこれがおいしいかなんてどうでもいいじゃん。」
みたいなことをよく語ってるんですよね。
つい知的理解をしたくなるし、知的理解こそが「分かった」と思い込んでいたのですが、違うんだなと。ただラベルを貼って分かったと自分を納得させているだけなんだな、と。
こうして尊敬する2人の偉人によって大いなる間違いを犯していたことに気づくことができました。
それが正しいかどうかは分かりませんが、自分にとっては腹落ちしている次第です( `・ω・´)ノ
今に集中する
で、体験的な理解は「今」に集中することによって得られるとも気づきました。
これは本当に自分が苦手としていることで、今はだいぶマシになったと思いますが、ふりかえればここ数年はずっと今を犠牲にし続けてきたんですね。
将来の何か、目的ある何かに向けて、今を犠牲にして頑張らねば!
という意識が常にありました。
だから、マルチタスク状態がデフォルトになっていて、子どもと喋りながら別の事を考えていたり、公園に行って携帯を触っていたり。いや、未だについやってしまうんですが。笑
公園にスマホを持っていかないとか、今その瞬間に集中するようにして、その瞬間を全身で体験するように心がけるようになりました。
子どもの成長も本当にまともに直視してこなかったのかもしれないな…と後悔したんですが、話が逸れるのでやめます。
そんなわけで、今に集中することを通じて、その瞬間から得られる情報量を増やす。
全身で今この瞬間を受け止めることでしか得られない体験的な理解があるのだなと、気づくことになりました。
以上、2つ目のパラダイムシフトでした。
パラダイムシフト3:ゴールを置かない
3つ目、成果や目標といったゴールを置かないこと。
僕はこれまで、何かしらの目標やゴールを設定し、そこに至るまでの計画を立てて、これまで月間・週間・デイリーで進捗を計測してきたわけです。
これもやっぱり当たり前になっていたんですよね。
成果から逆算してプロセスを決める思考様式が染みついていたように感じます。
「Youtubeで今後の目標を置かないとおっしゃっていましたが、もう少し踏み込んで教えていただけませんか?」と尋ねました。
すると、こんな主旨のお話をしてくださいました。
「点としてゴールを決めると、それが達成できたときやできないと分かったときに「剥がれ落ちる」。そうではなく、方向性として「利他」に向いているのであればそれでOKという考え方をする。
そもそも、頭で考えるのではなく腹で決める。直感に従うようにしている。
ゴールを決めることは腹で決めることと相性が悪いのでやらない。
願望や期待や不安や欲、承認欲求、数字、富、称号などは求めれば求めるほど無限に膨らんでいく性質を持っている。そのこと自体は人間の営みにとって必要なもので悪いものではないのだが、もっともっとと膨らんでいく性質のものであることを知っておいて、膨らみ始めたときに自分でそれを観察して捉えることが重要。
その瞬間に、自分自身が大きな方向性として利他の方を向いているのであれば、それでOK。」
このようなお話だったと思います。
これが3つ目ですね。
他にも、たくさんの気づきがあったのですが、とにもかくにもこうして素晴らしい一日となりました。
まとめ
まぁなんというか、こうしてふり返ってみると、いかにして自分が資本主義のロジックに飲み込まれていたのかが分かりますね。
もっと多く、もっと早く。
「今」を「未来」の成果のための資本として犠牲にする。
今を生産のための資本として取り扱うことで、その瞬間を真に味わうこともできない。
生産性至上主義の病にかかり、常に慌ただしく思考は回り続ける。
夜、頭が回って眠れないなんてしょっちゅうありました。
常に焦りを感じながら、まだ足りない、時間が無い…。
いつも何かに追われていたように感じます。
未だに染みついた思考習慣や行動様式は抜けきりませんが、半年前と比べたら本当に穏やかになったなぁ。
今をコンサマトリーに楽しめるようになった。
何かみずみずしい豊かさのようなものを取り戻せたように感じます。
こうして文字にすると、なかなかうまく表現できないというか、自分自身の中にある思いをカタチにできていないのですが、これがまさに体験的な理解の一つなのかなと。
この日を境にして、生き方にも変化が生まれたわけですが、それはまた次の日記に記すことにします。
つづく( `・ω・´)ノ