こんにちは、ダメダメようぼくのひさまつです。
組織論について考えるシリーズ第5弾です。
久しぶりなのでこのシリーズの趣旨を自分のためにも確認しておくと、
- 集団の力ってすごいんじゃね?
- でも本来の力を今の組織のあり方では発揮できてないよね
という問題意識のもと、
- じゃあどんな組織だったらいいんだろう?
- どういう要素を持った集団が理想なんだろう?
といった「天理教における組織(集団)の理想的なあり方」について考えていこうというものです。
途中で趣旨が変わったり、脱線しながら進んでいきそうですが、教理解説と違って、あくまでも僕自身の思考整理のためなのでそれもヨシとさせてください。
また、ていねいな論証というより、自分の解釈を前提としながら進めていく思考整理メモとしてご理解くださいませ。
一旦ここまでのおさらい
久しぶりの投稿になるので、もう一度ここまでのポイントを整理しておくと、
組織というのは、とある目的を実行するためのツールである。
だから、天理教における組織とは、
陽気ぐらしという抽象的な概念を具体化して社会に実装するためのツール
だよね、って話でした。
となると、次に考えないといけないのは、
陽気ぐらしを社会に実装するために、どのような条件が必要なのか?
ってテーマかな。
そうなると、そもそも陽気ぐらしとは何か?あたりからやらないといけないのですが、そこまで手を伸ばすと当初の興味範囲からズレてしまうので、一旦パス。
ここからは僕の「陽気ぐらし」への解釈を前提としながら進めさせてもらいます。
陽気ぐらしを社会に実装するための必要な2つの要素
陽気ぐらし世界を実現するには、結局は個々人の日々の通り方にかかっていると思っております。
ちなみに、『天理教事典』でも、
陽気ぐらしとは陽気な心、すなわち明るく勇んだ心で日々を通ることである。(中略)つまり、陽気ぐらしは人間の日々のあり方一つにかかっている。
『天理教事典第3版』p973
とありまして、このあたりは前提として進めていきたいなと。
そう。
結局、社会に実装するといいつつ、その成否は個人の日々の通り方にかかってくるわけですね。
このブログではひたすら「おかきさげ」に基づく生き方こそがこの信仰の本質じゃないでしょうか、と言い続けておりますが、同じ問題意識ですな。
社会を良くしたいなら、結局は「僕自身」「あなた自身」の問題であって、決して「彼ら」の問題ではない、ということです。
そこが社会を良くする出発点ではないかなと。
彼らに問題がないと言ってるわけじゃありませんよ。今の天理教組織なんて問題ばかりだと思いますし、その組織メンバーだって「おいおい」という人はいっぱいいますよねー。
でも、まぁそんなこと言ってても人間ってのは自己肯定バイアスの塊ですから、disったところで彼らの行動変容は起こせないんですよね( `・ω・´)ノ
だからほっときましょう。
あなたの貴重な時間を彼らに使うのは無駄です。
…と、いつのまにか話が逸れているので、元に戻します。
陽気ぐらしを社会に実装したいなら、結局は個々人の心のあり方を変えられるかどうかにかかっている。
↑これを前提とすると、
天理教における組織とは、
陽気ぐらしを社会に実装するために、その方法として個々人の心のあり方を変えるためのツール
という具合に、少し定義を具体化できるかなーと思いました。
では、個人の心のあり方はどのように変われば良いのでしょうか?
これももう僕の解釈で進めていきますと、
- 生かされて生きていることに感謝できる
- その感謝の気持ちの実行として他者に貢献したいと思える
という2つの要素を満たしていれば良いのかなと。
お気づきの方もいらしゃるでしょうが、「おかきさげ」のメインテーマである「かしもの・かりもの」と「誠」に重なりますね。
どうしても僕は「おかきさげ」のパラダイムを通じてこの世界を解釈しているので、そう見えてしまうのかもしれません。
ただ、世界中の人が、日々生かされて生きていることに感謝し、その報恩として他者貢献の欲求があれば、ものすごく素晴らしい世界になると思いませんか。
まとめ
サクッとまとめます。
今回は、
天理教における組織は人々の心のあり方を変えるためのツール
であり、どう変われば成功したと言えるのかというと、
「感謝」と「報恩としての他者への貢献」という2要素があればOK
といった感じかな。
少し具体的に見えてきた感があるな。もちろん仮説というか、これが絶対の正解だなんて思ってないので、今後アップデートされていくと思いますが、今のところ自分ではしっくりきています。
とりあえず、今日はここまで( `・ω・´)ノ
今日も成人しましょう!